あるとき、仲哀天皇は熊襲を討つため筑紫国(九州)へ出向いた。この時天皇は神功皇后を同伴した。天皇は筑紫の香椎(かしい)の宮(福岡市)に入ると、神帰(かみよ)せのために琴を弾いた。神を呼んで熊襲討伐についての神意をうかがうためだ。琴はそのための道具である。天皇が琴を弾き出すと、大臣のタケノウチの宿祢(すくね)は、沙庭で神の神託を待った。そのとき突然、神功皇后が神がかりになった。その身に神が乗り移り、巫女のようにこんな神のお告げをした。『西の方に国(新羅)がある。その国には金や銀をはじめとして、光り輝くいろいろな珍しい宝物がたくさんある。私は今、その国を汝らに授けようと思う』。熊襲討伐など後回しにして、遠征しろというのである。このお告げに天皇は、神が偽りを言っていると思い、弾いていた琴を押しやって弾くのをやめた。そして、沈黙するのみであった。天皇は新羅遠征に反対だったのかもしれない。いずれにしても天皇の態度は、神のすさましい怒りを招いた。神はこう告げた。『西の方の国だけでなく、この国もそなたが統治すべき国ではない。そなたは黄泉の国への一筋の道を進むがよい』。それを聞いたタケノウチの宿祢は驚きあわてて、天皇にこう訴えた。「恐れ多いことです。わが天皇様よ、琴をお弾きなさいませ」。その訴えに、天皇はいやいやながら琴を引き寄せ、しぶしぶ弾き始めた。けれども間もなく琴の音はピタリと止まった。タケノウチの宿祢が不審に思い、火を灯して見ると、天皇はすでに亡くなっていた。五十二歳であった。

 

 

邪馬台国の女王卑弥呼は、呪術を用いる神秘的な人物だと伝えられている。古代中国の魏とも交流を持ち、239年には皇帝から「親魏倭王」の称号も贈られた。だが「古事記」や「日本書紀」には、卑弥呼の名前が見えないため、国内史料からその存在を証明するのは難しい。それでも卑弥呼を比定しようと、古くから様々な説が提唱されてきた。そのうちの一人が、三韓征伐伝説を残した神功皇后だ。「日本書紀」では、卑弥呼を神功皇后に見立てて記述していたため、江戸時代には神功皇后は卑弥呼だと考えられていた。現在は、神功皇后の存在自体が疑わしいことから、そのモデルとなったのが卑弥呼ではないかともいわれている。他方、江戸時代の国学者本居宣長は、邪馬台国は九州にあると考え、熊襲の女性首長卑弥呼が、自身の勢力を朝廷だと偽って魏と交流したと結論付けた。近代にはいると、哲学者和辻哲郎が、卑弥呼を太陽神アマテラスだとみなす説を提唱した。九州で太陽神を崇めていた邪馬台国が、近畿に移動し、太陽信仰を持ち込んだとする説だ。近年、この説に関連した発見が続いている。長年の発掘調査によって、北九州出土の鏡が、奈良県纏向遺跡群から出土した鏡と同型で、より古いものだとわかった。鏡は太陽信仰の象徴であり、伊勢神宮の古文書にも、アマテラスが所持した八咫鏡について記述されている。そして、そこに記された八咫鏡の特徴が、北九州を支配した女王が眠る平原遺跡(福岡県)から出土した鏡の姿と一致するのだ。だが、卑弥呼の正体は、いまだ多くの謎に包まれている。