―有島武郎―

新橋を渡る時、発車を知らせる二番目の鈴ベルが、霧とまではいえない九月の朝の、煙った空気に包まれて聞こえて来た。葉子は平気でそれを聞いたが、車夫は宙を飛んだ。そして車が、鶴屋という町のかどの宿屋を曲がって、いつでも人馬の群がるあの共同井戸のあたりを駆けぬける時、停車場の入り口の大戸をしめようとする駅夫と争いながら、八分ぶがたしまりかかった戸の所に突っ立ってこっちを見まもっている青年の姿を見た。

「まあおそくなってすみませんでした事……まだ間に合いますかしら」と葉子がいいながら階段をのぼると、青年は粗末な麦稈(むぎわら)帽子をちょっと脱いで、黙ったまま青い切符きっぷを渡した。

「おやなぜ一等になさらなかったの。そうしないといけないわけがあるからかえてくださいましな」といおうとしたけれども、火がつくばかりに駅夫がせき立てるので、葉子は黙ったまま青年とならんで小刻みな足どりで、たった一つだけあいている改札口へと急いだ。改札はこの二人ふたりの乗客を苦々にがにがしげに見やりながら、左手を延ばして待っていた。二人がてんでんに切符を出そうとする時、「若奥様、これをお忘れになりました」といいながら、羽被(はっぴ)の紺の香においの高くするさっきの車夫が、薄い大柄(おおがら)なセルの膝掛(ひざかけ)を肩にかけたままあわてたように追いかけて来て、オリーヴ色の絹ハンケチに包んだ小さな物を渡そうとした。

「早く早く、早くしないと出っちまいますよ」改札がたまらなくなって癇癪声(かんしゃくごえ)をふり立てた。

青年の前で「若奥様」と呼ばれたのと、改札ががみがみどなり立てたので、針のように鋭い神経はすぐ彼女をあまのじゃくにした。葉子は今まで急ぎ気味ぎみであった歩みをぴったり止めてしまって、落ち付いた顔で、車夫のほうに向きなおった。

 

 

有島武郎「1878.3.4(明治11)~ 1923.6.9(大正12)」

父が横浜税関長となったため幼時から文明開化の気風になじみ,ミッション・スクールに通って西洋思想を身につけた。学習院を経て札幌農学校に入り (1896) ,のちハバフォード大学,ハーバード大学大学院に学んだ (1903~06) 。ホイットマン,トルストイに傾倒し,キリスト教入信の一時期もある。作風は西欧 19世紀リアリズムの手法に学んで重厚かつ鮮明で,キリスト教的人間愛を,霊と肉の二元的対立や矛盾をこえて生み出そうとする苦悩などを描いた。武者小路実篤,志賀直哉らの『白樺』派に属したが,1917年の『死と其の前後』あたりから旺盛な創作活動を示した。『惜みなく愛は奪ふ』 (17,20) は本能愛のなかに自我完成の可能性を求めた代表的な評論だが,まもなく社会主義の台頭とともに思想的動揺を生じ,波多野秋子と心中して終った。代表作『カインの末裔』 (17) ,『生れ出づる悩み』 (18) ,『或る女』 (11~19) など。