南八幡の初午(はつうま)祭
 
高崎市山名中央地区には、3カ所に稲荷大明神が祀られていますが、このうち上中組と上組の稲荷神社では、毎年初午(211)には住民が社(やしろ)に集まり盛大に初午祭を行っています。
「初午」(はつうま)とは、稲荷神社のご祭神・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が伊奈利山 または稲荷山で、京都市東山連峰の南端、深草山の北にある山)へ降りた日が和銅4(711)211日であったとされ、この日が初午であったことから、稲荷神社ではこの日に初午祭が催されています。
 
上中組の稲荷神社
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 山名町の稲荷塚古墳に建立されている上中組の稲荷神社は、山名町下東にあったとされる「宝積寺(山ノ上地区から寛文5(1665)年頃に移寺した真言宗の寺)境内に寛政12(1800)年に建立されたが、江戸時代末期に寺が火災となり、そのため廃寺となったので、現在地に神社が移されたものと思われる。なお、明治7(1874)年編集の多野郡誌には現在地に鎮座していたことが記録されています。
 
稲荷大明神本宮許可状               
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 本宮許可状(訳文)
 正一位稲荷大明神を祀ることを紀州紀伊郡(京都府(山城国)にあった郡)にある稲荷大明神本宮では、稲荷大明神はとてもあらたかな神様なので、新しく祀ることはなかなか許可しないのであるが、あなたがあまり熱心に長年にわたり大明神を還宮したいとの願い出に感心し、その願いにこたえるため今すみやかに稲荷大明神を祀ることを許します。稲荷大明神を祀る場所は、上野国多胡郡宝積寺境内である。大明神を新設したら、よい日を選びお祭日を決めて、末代まで怠りなくお祭りを行い信心しなさい。大明神を熱心に信仰するなら、その家には五穀が実り全ての幸があり、その家の発展すること大明神が守ってくれるであろう。   寛政12(1800)年8月末日  正四位下行 三河守秦宿祢
 
《この本宮許可状は、当稲荷大明神の御神体として初午の日には祠に安置し、お祭りの主役にして奉ります》

 

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 上中組の初午祭(212日実施)の行事は、約40人が宿である南八幡公民館に集まり、朝930分に太鼓を打ち鳴らし稲荷神社へ出かけます。神社に到着すると御神体(本宮許可証)を飾り、祓い清めてお神酒を廻し儀式をします。この間に、組長、各班長は宿で宴の準備をして帰りを待っています。
 
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 お稲荷様を参拝して宿(南八幡公民館)に帰ると、御馳走が山盛りで待っています。料理の中心は狐の意に添い、油揚げ、豆腐を主にした田舎料理です。この時、神に供えた重ね餅を切って「オミゴク」として配りますまた、初午祭りは町内会の総会の場でもあります。町内会の組長・班長を選んだり、町内会の定めごとを協議しますが、同時に歓談、憩いの場でもあり楽しい初午祭となります。
 
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上組の妻恋稲荷神社
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 山名上組の妻恋稲荷社は、山名八幡宮石段脇に祀られている。211日が初午祭で当日は稲荷社での御払いの後、地区のコミュニティー消防センターで宴を催す町内行事となっています。
 
 下組の妻恋稲荷神社
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 山名下組の妻恋稲荷社は、大正6年頃山名に疫病が蔓延したが、当時は医療体制も整わず多くの死者が発生した。このため山名下組の有志先達により、霊験あらたかな神として尊信されていた稲荷大明神を祀り、疫病の平癒を祈願した。当初は、万寿屋スーパーの西側の土地に建立されたが、その後、昭和30年代に山名八幡宮境内に安置されたものです。
 
参考文献:「みなみやはたの歩み第4集(稲荷大明神)