伝説・民話等№10
  南八幡の史話と伝説
 
『木部姫のおろち』
 
敗戦の城主の室や姫が入水して大蛇になったという話は、各地で聞く戦国時代の悲話であるが、上州(群馬県)の榛名湖(高崎市榛名湖町)にもそうした伝説が今に残されて、ここを訪れる人々の興味をさそっている。
 
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 この榛名のすそ野の一角に箕輪城(みのわじょう/高崎市箕郷町)があった。その城主長野業政(なりまさ)には、男子吉業、業盛のほかに12人の姫がいた。子たくさんであったが、長野業政は西上州の覇者(はしゃ)であったから、この12人の姫は戦略的につぎのように西上州各城の城主にとつがせて、箕輪城を守っていた。
 
「第一女」小幡城主小幡尾張守信定、「第二女」小幡図書殿内上・小幡図書助影定、「第三女」武州忍成田殿内上、「第四女」木部殿内上・木部宮内少輔定朝、「第五女」大戸殿内上・大戸城主大戸左近兵衛、「第六女」和田殿内上・和田(高崎)城主・和田業繁、「第七女」倉賀野殿内上・倉賀野城主金井淡路守景秀、「第八女」羽尾殿内上・吾妻郡羽尾村(長野県)羽尾氏、「第九女」浜川殿内上・浜川城主、「第十女」厩橋殿内上・厩橋(前橋)城主、「第十一女」板鼻依田殿内上・鷹巣城主、「第十二女」弾正忠業通室・室田鷹留城主
 
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 このように城主の室として箕輪城の外郭をまもり白井城主や惣社(そうじゃ)の蒼海(そうかい)城主とも重縁の関係があったのは、長野氏の敵小田原の北条氏や、甲斐の武田勢にそなえていたもので、これらは、越後の上杉謙信がそのバックアップとなっていた。

 

 このような戦国の時代にあってはその統率がかならずしもうまく進んでいないことは、第四女、木部姫のとついだ木部城主内少輔定朝(さだとも)にしても、箕輪城主の長野業政(なりまさ)との間はうまが合わず、常に争いがたえなかったが永禄4年(1561年)武田信玄は西上州に覇をなす箕輪城主、長野業盛を攻めるために、まづはその砦である西上州の諸城を二万人余の大軍を持って潮のような勢いで攻めたてた。
 
 はじめに小幡(おばた)城が内乱から小田原の北条氏康に降し、武田勢に通じ形勢が武田勢に有利になったが、その年は余地峠を越えて甲府に帰った。永禄6年正月、信玄は三万五千余騎をしたがえて甲府を出発し、余地峠から甘楽郡にはいり峰岡本などの砦はくずれ、信玄は小幡城で軍配をふるっていた。こうして一ノ宮、富岡、平井城を降し、さらに藤岡城の城主依田幸成も城とともに降伏してしまった。
 
 破竹の勢いで木部、山名もおとし、木部城主木部宮内少輔定朝は城とともに自害してしまった。それよりさき木部姫は、腰元らと箕輪城に引き上げていたが、武田勢のためその箕輪も危険となったので木部姫らは箕輪城をのがれ、吾妻に向かうことになり、その途中榛名湖にたどりついた。
 
 湖畔をただよううち、世のはかなさをなげいて榛名湖に飛び込んでしまった。あっと驚いた腰元もつづいて湖水に入水して湖底深くしずんでいった。
 
 さざ波がうちよせていたが、それがたちまち大波となってひとところにもりあがるように吹き出したかと思うと、その中から木部姫が大蛇(おろち)となって現れ、にわかに風波が荒らだち、樹木も倒れんばかりにゆり動か、湖心から白蛇は舞いあがったのである。
 
 腰元たちも驚いて、みなこれに殉じて湖水に身を投じたがやがてこの待女たちの姿は蟹に化してしまった。
 

 

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 この怪異に地元の人々はおののいたが、高崎市下室田町にある室田山長年寺の住職が登山し、ねんごろに木部姫らの霊をとむらい、義女塔をたてた。いま湖畔にある石碑に、「龍躰院殿白山天正大姉」とあるのがそれで、そこに小さな社を建立してそれを御沼龗(みぬまのおおかみ)神社といった。のちに改められて木部神社といい、湖畔の南面、多くの売店が立ち並ぶ道路脇に今も残されている。後年雨乞いがあるとき住僧がきてこの碑に血脈(けちみゃく/仏法相承の系譜)を投げれば必ず雨が降ったとも伝えている。

 

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                                      「上州の史話と伝説」より
 
【武田信玄の上州出陣】
永禄4年(1561年)武田信玄は、同盟関係にあった北条氏を支援することを口実に、第4回川中島合戦に引き続き上州甘楽の谷に進出する。箕輪城・和田(高崎)城・倉賀野城を結ぶ結合を破るため、和田城攻撃を強め、和田方の内部分裂で和田城を味方にする。和田城の脱落で、箕輪城と倉賀野城が分断され両城が孤立化する。
 
 永禄6年(1563年)高崎市室田町長年寺の僧が、長年寺の保障を願って木部に出陣の武田軍の陣中を訪問した記録が残されている。
 永禄7年(1564年)倉賀野城落城。金井淡路守以下倉賀野衆は武田軍に編入され、金井淡路守・倉賀野衆には玉村郷の一部が与えられた。
 永禄8年(1565年)箕輪城落城。(落城を箕輪軍記では永禄6年、その他で永禄9年説もある。)

 

  【時代的背景】
1560年(永禄3年)織田信長が今川義元を討つ(桶狭間の戦い)
 
1561年(永禄4年)上杉謙信・関東管領に就任、上杉謙信と武田信玄が川中島で4回目の合戦
 
1562年(永禄5年)織田信長・徳川家康と同盟
 
1563年(永禄6年)武田信玄、北条氏康が武蔵松山城の上杉憲勝を攻略
 
1564年(永禄7年)上杉謙信と武田信玄が川中島で5回目の合戦
 
1571年(元亀2年)織田信長の比叡山焼き討ち
 
1573年(天正元年)武田信玄死去
 
1575年(天正3年)織田・徳川軍が長篠で武田軍を破る
 
1578年(天正6年)上杉謙信死去
 
1582年(天正10年)武田勝頼死去
 
                   榛名町下室田町 「長年寺」と長野氏累代の墓 
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