南八幡の寺院・仏閣 №8
山名八幡宮
                                        
                                                                                        所在地:高崎市山名町1510-1
 
  山名八幡宮の創建には2説あります。安元年間(1175年ー77年)と文治年間(1185年ー90年)ですが、八幡宮では安元年間の創建として平成50(1975)年に800年祭を行っています。その山名八幡宮の由来は、「前城山」に城を構えて山名氏の開祖となった新田義重の嫡男「山名義範」が北方の前山に山名城を築き、山名三郎として城主に収まった時、曽祖父八幡太郎義家を祀って「宇佐八幡」を勧請したと伝えられ、安産、子育ての守護神と言われており、4月15日と10月15日の例祭には多くの子供の成長を祈る親子が参拝に訪れます。
 山名八幡宮は子供の「虫封じ鎌」と「獅子頭」でその名は広く知られている。祭神は「玉依比売命」(たまよりひめのみこと・神武天皇の母神)、「品蛇別命」(ほんだわけのみこと応神天皇)、「息長足姫命」(おきながたらひめのみこと・神功皇后)、「大日霊命」(おおひるめのみこと)の四神と伝えられています。
 
800年祭】昭和5010月、境内に水舎などが新築され荘厳さを加え、創建800年祭が盛大に行われた。
 
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  高崎市八幡町の八幡様に対して、こちら南八幡の八幡様は高崎市山名町に鎮座する。
  祭神は、品蛇和気(ほんだわけ)の尊(応神天皇)。玉依姫(たまよりひめ)。息長足姫(おきながたらひめ)-神功皇后-。豊前国(ぶぜんのくに・大分県)の宇佐八幡宮を勧進(かんじん)したものといわれる。源氏の一族、新田氏の祖義重(よししげ)の一子義範(よしのり・山名氏の祖)の崇敬が厚く、文治元年(1185)社殿を造築したと伝えられる。近くの山名城もこの人の築城といわれる。
 八幡信仰は中世(鎌倉時代から戦国時代まで)になって普及したものであるが、文献上の最初は、宇佐八幡宮が8世紀中頃、東大寺大仏鋳造を助けるため、奈良の都に出現し、仏教と結んだとある。平安時代には、男山八幡宮を皇室が厚く信仰し、平安期には源氏が氏神として信仰。それ以来、武の神として信仰された。この信仰は母神と子神を中心とした。いわゆる處女懐胎と(しょじょかいたい)とか、母子神の信仰にはじまり、若宮または御子信仰となり、神聖な児童の誕生という思想と密接に結びついて御霊神を、看属(けんぞく)としてもつようになった。現在でもこの山名八幡宮は毎年4月15日、10月15日の例祭には近郷近在からの参詣が多く、商売繁盛、安産、子育ての神として、獅子頭などが売られている。また、二股大根の信仰、これをお供えすると願いごとが必ずかなえられるという。武神としての信仰以前の農耕神としての姿がうかがえる神社である。
 
参考著書「高崎の散歩道・神社考」より
 
 
 
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  山名八幡宮は、『上野国神社明細帳』に依れば、宇佐八幡宮を勧請し、山名義範が宮社を造営したとあり、次のような文書が確認されている。
 
  暦応 3(1340)山名時氏が八幡宮大般若免供僧職を寄進する。
  貞治 3(1364)上杉憲春が坊地壱宇等を寄進する。
  応安 3(1370)源義渡が八幡宮一分供僧職を補任する。
  応安 4(1371)比丘尼抄本が山名宿の在家壱宇を寄進する。
  応安 6(1373)源一が式部阿闍梨に田を寄進する。
  永和 元年(1375)山名師義が式部阿闍梨に別当職の支配権を認める。
  康暦 元年(1379)刑部房頼尊が民部卿に神田を譲与する。
  永徳 3(1383)源義安が別当職を寄進する。
  康応 元年(1389)山名時義が実相房良尊を別当職に補任する。
  明徳 3(1392)山名季義が山名郷内の田一段を寄進する。
  応永 4(1397)山名時煕が讃岐阿闍梨房に別当職を安堵する。
  応永23(1417)源憲経が阿久津村の田を三位法印に寄進する。
  寛正 4(1463)山名持豊が長宥律師に補任する。
  天文 元年(1532)某憲兼が鳥居造営について指示する。
 
  これらの文章をみると、山名氏が西国に移っているにもかかわらず、長期間に渡り当社を支配し、出自の地とそこにある氏族の神社への思いが見られる。また、貞治3年上杉憲春の神田寄進は、南北朝時代に当社が有力な神社の一つであったことを示している。そして、天文元年に鳥居を造営しようとしていることから、室町時代後期においてもその神威が大きかったことがわかる。
                                                          
                                                                                                      「新編高崎市史資料編3中世1」より
手水石(ちょうずいし)
神社の境内に置かれている手水石は、参詣するときに身を清めるために手を洗う施設である。石の手水石が造られたのは鎌倉時代以降である。山名八幡宮の手水石は、安山岩製(73×125×70)  
  「施主/山名村中、奉寄進洗漱盤、元禄十三庚辰歳霜月吉日」(1700)と彫られている。
 手水の作法 ①まず左手を洗う ②次に右手を洗う ③左手で水を受け、口をすすぐ

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  山名町の中心部、山名郵便局の道路ぞいの石の表札に「八幡宮御旅所」とある。これは八幡宮の大祭のとき、ここまで神体を遷(うつす)場所といわれており、式年遷宮の行事を形式化したものである。

 

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 鏑川七福神
鏑川七福神の順路は①山名八幡宮(弁財天)⇒②本城寺(毘沙門天)⇒③栄命寺恵比寿天)⇒④清泉寺福禄寿)⇒⑤霊山寺布袋尊)⇒⑥常光寺寿老人)⇒⑦中之獄神社大黒天)のコースです。
①【山名八幡宮】 高崎市山名町1581
②【本城寺】富岡市富岡890
③【栄命寺】甘楽郡下仁田町馬山
④【清泉寺】甘楽郡下仁田町下仁田
⑤【霊山寺】甘楽郡下仁田町下仁田716
⑥【常光寺】富岡市下仁田町宮室  
⑦【中之獄神社】富岡市下仁田町上小坂
 
山名八幡宮弁財天」は、七福神の中で、唯一の女神で、元はインド河(水)の神であったが、やがて音楽の神、言語の神となり日本に伝わった当初は、弁才天と呼ばれた。その後、財宝・芸術に関係深い吉祥天の性格が吸収され弁財天といわれるようになり、財宝を授けてくださる神へとなったものである。知恵財宝、愛嬌縁結びの徳があるといわれている。
 
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