南八幡の寺院・仏閣 №6
白髭神社しらひげじんじゃ)
 
                                                     所在地:高崎市根小屋町1497
 
 
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 高崎市根小屋町(第1区)に鎮座する白髭神社は、祭神猿田彦命。社務所は町内公民館となり、境内の新墾碑(駒井真蔭)は有名である。
 白髭神社は、東京墨田区寺島一丁目の白髭神社と関係がある。この神社の社伝によれば、天暦5年(951)に近江国滋賀郡打下村から勧進祭祀したといわれ、本社は比良明神といい、祭神は猿田彦である。武蔵国にも古代朝鮮からの渡来人が多く、それらの人々によって祀られたものに高麗神社があり、この祭神である「王若文」を「白髭さま」として祀ったものです。猿田彦を祭神とした神社は多いが、白髭神社としては、武蔵の高麗神社。近江の白髭神社がその総本社で、その分社は、九州から北海道までひろがっており、判明しているものでも150社ほどある。ここの根小屋の境内に末社として、白髭神社の秩父の三峯社の仮宮もあり秩父との関係も考えられる。
 
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 駒井真蔭頌徳碑
 根小屋駒井源六の二男通称嘉兵衛。文政6年(1824)出生。橘守部に国学を学んで聞こえ高く、念流累代中の名人と仰がれる樋口定伊と親交があった。根小屋七沢が年々荒れて被害の大きいのを憂い明治3年高崎藩に願い出て地域開発の許可を得、有志吉田、清水らと産を投じて難事業を完遂した。良田五十町を新しく開拓し地域の恩人と仰がれ、白髭神社境内に頌徳碑が建てられた。明治36年、81歳没。
 
 明治以前の根小屋の水田は七沢の水に頼る以外になかったが、年々沢が荒れて被害の大きいのを憂いた根小屋住人の駒井真蔭(まかげ)や吉田和蔵などが、明治3(1870)年に高崎藩から地域開発の許可を得て、石原堰からの水路を開削する難事業を完成し、良田50町を新たに開拓し地域の恩人として仰がれました。その時の業績をたたえた頌徳碑が白髭神社境内に建つ「新墾碑」(しんこんひ)で明治29年に建立されました。
 
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 根小屋は中世は木部に属しており、木部新田といわれた所で、寺尾境までが木部分であり、寺尾境の所を木部境と呼んだ、木部氏が盛んであった戦国時代には、その所領であったと思われる。木部新田といわれても、根小屋の水田は沢の水に頼る以外になく、水稲に必要な水量を得ることができず、そこで根小屋の住人であった駒井真蔭や吉田和蔵などが碓氷川の水を引いた石原の堰から分水し、水路を開削して根小屋まで引いたのである。その時の碑が「新墾廼碑」で明治29年に建立している。               (「高崎漫歩」P296)より
 
金井沢碑との関係
 この社の近くの金井沢を登った所に「金井沢碑」があり、碑文中の鍛治師の文字。この付近に出土する粘土層のあいだには鉄分の多いものを含んでおり、金井の地名には必ず鉄産地、鉄鉱製錬との関係が考えられるという。金井沢の碑の発見された江戸時代に、この碑を、近くの民家の人々が洗濯用の砧(きぬた)としてつかっていたともいう。この洗濯方法も朝鮮式である。こんなことを総合して、この神社を祀った古代の人々に渡来文化との関係も考えられる。
 
      参考著書「高崎の散歩道・神社考」より