石碑・頌徳碑 №7
御野立所(おのたちじょ)跡の石碑
 
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高崎市山名町の烏川と鏑川に挟まれて、西から東に延る丘陵の東端に山名八幡宮の社があります。その山名八幡宮西方の小高い丘陵が八幡山と呼ばれています。この八幡山の頂に「御野立所跡」はあります。
 この場所は、昭和9年秋、北関東で陸軍特別大演習が展開され、数万の兵が動員され東西両軍の遭遇戦が、当時の多野郡八幡村の烏川右岸でおこなわれました。その時に昭和天皇は、この丘に立って全軍を統率されました。この場所には現在、「御野立所跡の碑」、「石碑の路碑」、「佐野山の歌碑」、そして「筆塚」の4基の石碑が建っています。
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 「山名御野立所跡(やまなおのたちじょあと)の碑 
 昭和9年11月11日から13日の3日間に渡り、陸軍特別大演習が展開され際に最終日の11月13日に昭和天皇が八幡山に野外統監部を設けて演習を統率された場所で、この場所を「御野立所跡」として永久に保存すべく石碑が建立されたそうです。碑は昭和11年11月13日建立で、当時の多野郡八幡村関係諸団体の名前が裏面に刻まれています。
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石碑の路(いしぶみのみち)の碑         
山名八幡宮から観音山南丘陵地の頂にそって金井沢碑まで続く高崎自然歩道の約4.5kmの路傍に万葉の歌碑34基(5基については別途設置)が設置されています。この「石碑の路」に万葉歌碑を建立したのは、高崎市の建設業、信澤工業株株式会社の二代目社長信澤克己さんです。1基目の石碑が昭和50(1975)年、根小屋城址に建ち、29基目が金井沢碑の入口に建ったのが、平成13(2001)年のことでした。信澤さんは歌碑に自分の名を刻むこともなく、除幕式を行うこともなく、ただ26年間黙々と私費を投じて石碑を建て続けました。昭和61(1986)年には高崎市が、信澤さんの業績を後世に残すため八幡山の御野立所に「石碑の路」の碑を設置しました。
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「佐野山」(さぬやま)の歌碑
旧八幡村当時の小学校教師と有志により昭和11年(1936)10月に建てられた「さぬ山」の歌碑。
 
  「佐野山に打つや斧音(おのと)の遠(とお)かども 寝もとか児(こ)ろが面(おも)に見えつる」
                                               万葉巻143473 
(佐野山で打つ斧の音のように遠いけれども、寝ようというのであろうか、あの子が面影に見えたのは。)
 碑文揮毫国文学者 高野辰之 書 (高野辰之は国文学者で文部省唱歌「故郷」の作詞者です。)
 

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                      高崎商科大学が設置している信澤克己氏の残した「佐野山」の歌碑
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「筆 塚」
御野立所一帯の一番小高い所に筆塚があります。裏面に「自然に親しみ美しい故郷の心にふれることが、碑に託した願いです。幸いにして故大沢雅休先生のご遺墨をはじめ、諸先生のご揮毫を賜りました。謹んで深甚の感謝を捧げ、筆塚の辞とします。昭和55年5月5日」と刻んであります。
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大沢雅休 おおさわ-がきゅう
18901953 大正-昭和時代の歌人,書家
明治231217日生まれ。島木赤彦,田東声に短歌をまなび,大正12年群馬県で歌誌「野菊」を創刊。上京後比田井天来に書をまなび,昭和13年平原社を結成。作品に棟方志功(むなかた-しこう)との合作「裸振舞」がある。昭和28912日死去。62歳。群馬県出身。本名は雅休(まさやす)