ピアノ | gozira hunterのブログ

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ピアノを弾けたら人生が楽しくなるだろうな〜? などとピアノを練習するまでは勝手に考えていた。

 

60歳になった時に、もうこれ以上いろんな理屈をこねて、ピアノを練習しなければ、もう永久にピアノを弾くチャンスはないだろうと考えた、それに其の頃は仕事も楽になり、時間は自由に取れるようになっていた。ある日、ここサンフランシスコのに日系情報誌、ベイスポというのが(いまでもあるが)そこにピアノ練習生を求む、、という広告が出ていた。過去にもこういった広告が出ている事もあったが、 早速電話を入れた 女の先生で 確かパラアルト在住の人だった。ここサンフランシスから車で約1時間かかるので、先生がサンフランシスコからは遠いので、もっと近くの先生のところで探してみてはどうですか?と言ってくれたが、もう待ってはいられない、どこへでも行きますよ、、、という感じで早速彼女の家のあるパラアルトの先生の家に行った。

 

 

先生は当時50歳前くらいのハーフの先生で身長が180センチくらいある、大きな人だった。日本生まれの日本育ち、彼女のパパはスイス人でコンサートピアニスト、かなり厳しい人だったようで、子どもの頃よりピアノとドイツ語をびっしり仕込まれたと言っていた。日本に毎年ドイツから来るベルリン フィルハーニーが来ると、彼女はドイツ語通訳で数週間日本へ行っていた。

 

 

彼女も米国に来た頃はなにもわからないので、花屋で働いていて、花屋は水をたくさん使うので手がボロボロになったのよ、、、なんて言っていたが、彼女はピアノを年齢に応じて親切に教えていたので、すぐに沢山の弟子で埋まったと言っていた。

 

普通アダルトが使うピアノブックは子供のと違う本で、けっこう知っているポピュラーの音楽もあって、自然に入ってはいけたが、やはり大変で、先生が言うには、アダルトは平均1年で辞める、、と言っていたな。私めは一応先生が日本へ帰るまでの3年間真面目に毎週1回のレッスンを取り、毎日家で1時間の練習を欠かさなかったので、少しは弾ける様になったが、もう大変だった。

一つのレッスンが終わると、次というふうにまた難しくなる。石の上にも3年というから3年間頑張ってきたが、どうにもダメだった。

 

 

ブック3の終わりが、ベートーベンの ムーンライト ソナタとエリーゼだった。すばらしい音楽だ。この最後の2曲がなんとか弾けるようになった頃、先生は日本へ帰ってしまった。

 

 

其の頃、先生に聞いてみた、、、、先生 エリーゼ第一章節は何歳くらいが弾くんですか、、先生が そうね  5歳くらいかな〜?

え〜〜 それじゃ〜第2章節の バンバンバン、は、8歳くらいかな〜〜    オーマイ ガー 初歩ベートーベンを弾くのに3年もかかったのか〜〜 ガック〜ン ハハハ それでもいろんな曲も混ぜての3年間だった。

 

 

先生には高校生の倅がこっちアメリカにいて、娘の方はアメリカが好きでなく、日本にすんでいて、その頃は早稲田大学の学生だった。倅がサッカーの選手で身長が190CMくらいあり高校のキング、クイーンコンテストで優勝したハンサムボーイ、其の頃は

一流の建築関係の大学に受かった頃だった。倅に オイ まだハリウッドからスカウトがこないのか、、、と冗談を飛ばしたら、、ハハハまだ来ないな、、、なんて言って笑ってたな。そうかおめでとう これで仲間とピザでも喰えよ、、といって100ドルあげたら、まだ高校生、、、嬉しそうな顔してた。月日の経つのは早いもので、あれからもう15年くらい経った、彼も今では30代前半の歳になり、稼いでいるかな?

 

 

 

考えてみれば、高校生の時ウクレレ弾いて、トランペット3年間吹いて、ギターをやって、ピアノ3年、ウクレレ以外は満足する事はなかった。

 

 

余談だが、私めの弟は音大を出て、トランペットを吹いて、ギターを弾いて、ピアノを弾いて、プロで生活している。

芸名は タカパーチ ストリート ミュジシャンでもあります。

 

もっと凄いのには 従兄弟にタケダ ヨシミがいた(うちの親父の姉の子)。 東京芸大の指揮科を卒業 その後 渡米  1968年私が米国に来た頃、彼 タケダ ヨシミはホノルル シンフォニーの指揮者をやっていた。其の頃のアメリカでは、かの有名な小澤征爾、タケダ ヨシミ、クロダの3人がアメリカで活躍していた。
 

 

そんなことで、拳銃、ライフルを使って商売してた私め、、、こんな家族関係なのに、私めラッパを吹いて3年間も、ピアノも3年、ギターも、どれも、これも、うまくいかなかった。とくにピアノは難しかった。なんとか弾けるのはウクレレくらいかな。ただ言えることは音楽には興味がたくさんありました。高校の時に停学2回くらい、退学したら東京に出て、バンド ボーイになろと真面目に考えていた。日本にずっといたら、何してたかな? アメリカに来て良かった、本当の好きなことができたのだから。

 

 

 

群馬県の田舎で育った私ですが、当時は珍しい電蓄というのを親父が買ってきてきた、SPレード、一曲ごとに針を取り替えるもの、1950年代。其の中にたった1枚のクラッシク レコードがあった。バッハのホフマンの舟歌、裏面がシューベルトのセレナーデ、、、それを毎晩聴いていた、わけもわからない、小学生だった。

 

 

 

 

 

 

 

今年も家の裏庭にダリアがたくさん咲きました。