アメリカへ来た時、船で来たのでなんでも積んで持ってこられた。一番の荷物はオートバイだった。当時日本では確かホンダのCBが一番早かったのではないだろうか。でもアメリカのフリーウエイは一歩町から出ると、広大なフリーウエイが開ける。
もう250CCなどは最低の小型バイクとなってしまう。
昔はオートバイに乗るのにヘルメットもかぶらなかった。そんな法律はなかった。
これもかなり前の映画だが、タイトルは忘れたが、キューバ出身の革命家 チェ・ゲバラのストーリーで、彼が医学生の頃、友達と2人乗りで昔の小さなバイクで、いろんなトラブルに合ったり、貧しい人達に合ったりして、彼はその経験から革命家を目指す、、チェ ゲバラの若き日の物語なのだが、オレたちも同じような感じでホンダCBに2人で乗ってネバタ州を目指した。
最初の年、語学学校へ行ってた時、大阪から来た友達ができた。彼は高校を出てすぐに米国に来た19歳になったばかりの青年だった。
日本にいた時は東京で働いていたが、大阪出身の友達は1人もいなかった。アメリカには当時関西の青年の方が多かったような気がする。バリバリの関西弁を使うビジネスマン希望者が多いようだった。そしてよく食い物の話をする。なにがうまいとか、彼のアパートに行くと、今日は餃子を作ります、、と言って作ってくれる。もう50年も前の話、、餃子って食ったことがなかった。うまいもんだな〜、、、それから彼に作り方を教わって、餃子料理を自分でつくるようになった。
ある日、学校でクラスが終わった後、彼が言ったもんだ。 タカハシさん、、、ネバタのリノ郊外に有名な、マスタング ランチというキャットハウス(売春ハウス) があるからオートバイに乗って行きませんか?と誘われた。彼も私めも、まだアメリカに来たばかりで、元気で好奇心の強い若者なら経験をしてみたい、スッラと背の高い金髪の白人と、、、今と違って当時は女の裸の写真はプレーイボーイ マガジンくらいのものだった。まだビデオやDVDはおろかコンピューターもない時代。
そこで、無知の2人は小さなバイクに2人乗りして、ネバタの砂漠を目指した。まったくヘルメットどころかバイク用のジャケットもなし、荒野の砂埃に吹かれて、散々な目に遭いながら走った。
広大なフリーウエイを走っていると、向こうから20〜30人、でかいハーレイ デビッドソンに乗ったバイク ギャングのヘルス エンジェルスのグループがドカドカと轟音を鳴らして、頭にバンダナを巻いてサングラス ノーヘルメット、腰にはデカいナイフをブラ下げているのが、やってくるではないか。
こっちが、、オイ ヘルス エンジェルスだ。 へ〜イ ヘーイと 手を降っても、まったく相手にされず、無視された。
リノの町の着いてから、ガソリン スタンドなどで数カ所でキャット ハウスの行き方を聞いて、サンフランシスからやっと疲れてたどり着いた。フリーウエイを外れた荒れ地の奥に金網で周りを囲ってある中に、トレラーハウスを大きくしたような建物が見えてきた。建物の周りには見渡す限り家などなかった。トレーラーハウスの中に2人で興味津々、、入っていくと、黒人のでっぷり太った黒人のおばさんが出てきて挨拶してくれ、広間に通された。 おばさんが、、、ガールス と一声 叫ぶと 女達が20以上くらいずらりとならんで、白人、黒人、ラ・テーノなど1人ずつ名前を言ったが、、、オレたちは のぼせ上がってしまい、頭がボーとして、そんな名前などわからない。2人共にっこり笑って愛想の良さそうな背の高い金髪のロングヘアーを指さて、日本語でコレ コレ 彼女がニッコリ笑って OK ボーイ カモン といって彼女の部屋に連れて行かれた。
なんか、スポーツをやっている感覚だったな。彼女が良いからだしてるな、なにやってんだ、、と聞くから柔道やってたんだ、、というと柔道教えてくれ、、 なんて言われて、ベッドの上で、ドッタンバッタン、、2回戦が終わって部屋を出てくると、、一緒に来た友達は早く終わったらしく、なにやってんねん、、、と言って文句をいわれたな、、一人でぽつんと ソファーにそわっていた。これで彼は19歳の夏に人生で始めて、それも金髪の白人の女によって童貞を喪失した、ハハハ。童貞青年だった彼もその後、サンフランシスコのカレッジを卒業して、ハワイでレストランの経営者になった。
この写真も渡米した数年後、北カリフォルニアの牧場で乾草の塊をトラックに積むバイトをやっていた頃。
今までやったバイトで一番きつかった。向こうに見える乾草の塊は70−100ポンドもあり、それをベルトコンベアーを使って大型トラックに積む仕事。金にはなったが、どうにも体力だけでは、カウボーイの仕事はなれるまで大変で、田舎の白人の若者もやらない仕事だった。
以下、ネバタ州の経験が続きます。
ネバタの砂漠地帯もこんな感じの、荒原や牧場が多いのですよ。