上の写真は90年代後半に、日本からやってきたラテンバンド カリビアン ブリーズのバンドとサンフランシスコの田中誠一率いる和太鼓奏者のグループがキューバ各地で演奏旅行をした時に一緒に同行した。この時、日本、キューバ移民100周年記念イベントだった。戦前かもっと前には日本からキューバやカリビアン諸島にも移民者が少なかずいた歴史があるのだ。
日本人のラテンミュジシャンと現地のミュージシャンのコラボだったが、まったく同程度の演奏で、日本人の女性歌手も2人来ていた、確か名前は渡辺 マチコさん、スペイン語で踊りながら歌うのだが、素晴らしかった。そんな思い出がある。
私めはサンフランシスコ太鼓道場のいちおう理事だから、太鼓をステージにセットしたりして、手伝っていた。
演奏のない日に、彼と2人で甚平を着て雪駄を履いて、ハバナの町を散歩していた。なんの肉かわからない肉が売っている薄汚い肉屋に入って行った(後で聞いたらラクダの肉)だと言っていた?、若いのが5〜6人オレたちを見て、ニンハ NINJA と叫ぶ。 スペイン語はJAはハになるので、忍者はニンハになるわけです、田中は大学生の頃、日本拳法の選手をやっていたので、、肉屋の若い連中の前で、格好をつけて、さっさ〜〜と型をやってみせる、もう肉屋のアンチャン達は大喜び、オレが エスタ ニンハタナカ〜〜、、と紹介すると。若い連中もニンハ タナカ〜〜と大声で叫んだ。
キューバはアメリカとの国交が60年頃途絶えたので、50年代のノスタルジックアメリカ車が現役で今でも沢山走っているし、面白い風景だったな、そして若いセクシーな女の子達も沢山いて誘ってくるし、ここは独身男のパラダイスじゃないかな〜とおもうわな。アメリカの文豪ヘミングウエイが毎日通っていた小さなバーが今でもやっていたし、けっこう情緒がある町なので彼のお気に入りだった ハバナ キューバ どうしても、もう一度行かなければならない。
そんな写真が整理をしていたら出てきた。また行きたいな〜、特にトロピカーナという劇場の歌とダンスは濃厚でよく訓練され素晴らしかった。
一緒に行く人がいれば、コロナが終わり次第、いつで出発できるのだがな。
毎日、毎日ステイホームとガーデニング、 たまには食料買い出し、少しは友だちに会って、どうしても山のようになっているガレージのガラクタを少しは片付けて、仕事をやめてから今月であっという間に5年の歳月が過ぎた。ついこの間60歳の還暦になりあ〜オレもいよいよ爺の年代になったのかナ〜、、と思ってはいたが、その頃は毎日ジムでまだまだウエイト トレーニングはやっていたしプールで1000メートはスイスイと泳いでいたのだが、毎年毎年と体力が衰えてくるのが、はっきりわかるようになってきた。
自分のものは銃なんかがほとんどで処分したが、残りは、たまに今でも日本から知り合いが来ると銃を撃ちたいと言うから、各種の口径のピストルやライフルを10数丁だけ残してある。その他はスクーバタンク3本、レギュレター、などのダイビングセットがあったりするくらいなのだが、ワイフと出戻り娘2人のいろんなガラクタがあり、、、もうガレージはいっぱいで車2台分埋まっている。捨てると文句を言うから捨てるわけにもいかず、ただビジネスをやっていた時の書類もけっこうあるがてCPA(税理士)が5年間は取っておけと言われたのが今月で早5年が過ぎたので、輸出入のインボイスや顧客名簿などは、もう後継者もいないので全部捨てる、そうすればガレージもかなりスッキリするだろう。
今は亡きジャック、、、彼とは1980年から毎年暮になるとメキシコのバハ カリフォルニア半島でキャンプをしたり、釣りをしてリラックスしていた。水平線の向こうは海、小さなフィッシング ビレッジがあり、魚をもらうか安く買って、焚き火で料理して食っていたな。
こんなバカでかいロブスターが穫れる漁師村でのスナップ。大きな型の良いのはアメリカ、その他の国へ輸出して小さいのは地元で食べるるから、ここではバカのように安い値段で活きたのを漁師から買ってきて、刺し身にしたり、フライパンで焼いたりして食ってたな。
そして夜になるとテキーラを飲みながら、誰もいない海辺にテントを張り、波の音きり聞こえない砂浜で、オレたちは馬鹿話しをしながら酔っ払って、満天の空に輝く無数の星を眺めながら、眠りにつくのでした。
フェリース ナビダ もうすぐだな バハもクリスマスが近い。