今やっている仕事は、足掛け40年にもなる。
こっちのジュニア かレッジ(短大)を4年半もかかって卒業した。語学学校2年と短大2年半という計算になる。卒業した翌年、なにかビジネスをやろうと計画はしていたが、金がまったくない。
さて、資本金がなくても、なにか出来る仕事はないかと考えた。
そこで考えたのが、日本のスポーツマン相手の、ビッグ ゲーム ハンテングを、ここアメリカ、カナダ、アラスカで、そしてフィシングはメキシコのカボ サンルーカスでマーリンを釣らせる。狩猟、釣りを、世界のスポーツマンが憧れている場所に連れて行く、そのガイドサービスの会社を作った。安アパートでテーブルひとつと、タイプライターだけのスタートだった。
会社名は、アメリカに来る時、船に乗って来たので、オートバイを積んできた。HONDA CB 250CC、当時は、このバイクが速かった。そのバイクに乗って、カリフォルニアかネバタ州か、何処かのカントリロードを、風に吹かれて走っていた。波をうって黄金に輝く広大な麦の植えてある穀倉地帯のローリングヒルを、バイクで、のんびりと走らせていた頃の、思い出をとって、、、” ゴールデン ウエスト スポーツ ツアー ” という名前の会社をつくった。
日本へ行き、知り合いのつてで、日本の狩猟クラブなどを廻ってセールスしたり、当時、” 狩猟界” とい雑誌もあり、そこに広告を出してもらった。これも広告費を払う金がないので、アメリカからの狩猟情報を送ったり、日本からアメリカに来たハンターの情報を書いて、写真と、ともに雑誌社に送り、広告代を無料にしてもらう事もした。
余談だが、仕事がないので、毎日、原稿を書きながら、ワイフが仕事に行っているので、上の娘のベビーシッターをやっていた。BGMに、いつもクラッシク音楽を流していたので、この娘は今でも音楽は、ほとんどクラッシックきり聞かない娘に育った。高校もローエル、大学もUCと真面目コースに行ったが、2番目の娘が生まれた頃は、今度はワイフがベビーシッターをやっていて、いつもロックばっかし聞いているので、まったくの問題児、不良に育ってしまったようだ。
こういった、情操教育って、あるのかしらん??。
話しは戻って、3年ほどやってみたが、ぱらぱらきりハンターがこないので、シーズンオフはレストランで働いていた。
ある日の事、ここシスコの日本人旅行社から電話があり、お客さんが拳銃を撃ちたいと言うのだけれど、出来ますか? この2人のお客さんが、我が社の最初の射撃ツアーのお客さんで、今でも忘れない。
その頃、全く金がなかった頃で、お客さんを銃砲店の前まで連れていき、車の中で1人50ドル、2人で100ドルもらい、お客さんには、銃と弾は別々にしておかないと危ないので、、なんて言って、38口径2箱買ってから、射撃場へ行った。
射場に着いたら、自分のイヤーマフきりないので、お客さんに、捨ててあるタバコのフィルターを拾わせ、射撃音がうるさいので耳に入れて下さい、と言って射撃をさせた。そして1丁の拳銃を2人で、代わりばんこに、撃たせたりした。
それから数年後に、日本のモデルガンショップなどから、アメリカで射撃をしたいと言って、20~30人とグループを組んでガンマニアが来るようになった。銃もいっきに100丁以上、あらゆるメーカー、モデルを、お客の要望に合わせて、集めて、一躍有名なガンツアーの会社になった。
射撃ツアーなどというビジネスは、当時なかったので、うちの会社が元祖となった。70年代後半の頃だった。80年代の日本経済のバブルの始まりから、90年代の半ばの終焉まで、年間3千人から4千人くらいの参加者がいた。
この頃なんと、1週間(約5日から6日)で1万発撃った男が2人いた。そのうちの1人は9MM、他が、なんと44マグナムを撃っていた。革手袋をやっていても、手の皮が切れて、血がにじんでいたが、平気で、どかすか撃っていた。すごい男がいたな。彼の本業は金貸し、ヤクザに金を貸すような男だった。
それから88年にガンショップを買収、小売りを始め、93年から輸出なども始めた。
40年間、真面目にアメリカで良く働いた。自分に、ご苦労さんと言いたい。
日本で大学へも行ってないから、じっさいには、50年以上も働き続けたのだ。
これでやっと、自由の身になったので、さて、まずは、まだ行ってない、南米の一部や、東南アジアの国々、ロシアも行ってないし、興味のある国々へ行こうかな~~。アフリカも行ってない、、1人でぶら~~~と、数ケ月間隔くらいで、旅に出る。群馬の実家も明治の家でボロボロ、友達が、この家は怖い、お化け屋敷などと言って、馬鹿にした事を言う。それも少しは、レフォームをして、住みたい。この家がないと、日本へ行っても、住むところがないから、寂しい。
日本を出たのが24歳になったばかりの歳、それからずっとアメリカ生活、親にも、可愛がってもらったお婆さんにも、なにも、してやれなかったから、せめて人生の後半くらい、日本にいる時は実家で毎朝、仏壇に線香でもあげ、花を活けてあげる生活もしたい。そして、田舎の生活が飽きたら、また旅に出る。
俺のネイサンが言ってたな、マサシ おまえ、日本の田舎は文化がないんだから、アメリカ生活の長いお前には、住めないよ、、なんてね。そうかもしれん。日本では鉄砲も簡単に買えないから、猟もできないから、、でも誰か友達が連れて行ってくれるだろう。そう言う事が出来れば、俄然田舎暮も楽しくなるな。
そうだ、それに俺にはワイフもいるんだから、そっちの面倒も見なければならないな??。
けっこう忙しいリタイヤーメントになりそうだ。