どうも。CircreeのFYです。
今更ながら「金持ち父さん貧乏父さん」を読みました。よくよく考えると当たり前なんですが、なるほどなと思うことが多々書いてあり、大変ためになりました。未読の人は読んでみてはどうでしょうか。活字慣れしていない人には長く感じるかもしれませんが。
お金に関する教育は一般的には親から教わりますね。直接的に言葉で教わらなくても、家庭のお金の回り方を肌で感じて、お金はこういうふうに使うのだなと。※以前のエントリーでお金と労働についてちょこっと触れました。よろしければこちらもどうぞ。
私の実家は裕福ではありません。家のお金を管理しているのは母ですが、自他共に認めるどんぶり勘定です。だからお金に余裕が無いのかもしれません。それをどうこう言うことはありませんが、私がそのどんぶり勘定を身につけたせいか、お金に困ることがあり、世知辛いなと思うことがありました(完全に自業自得ですが)。
働いて収入を得て欲を満たす。人生とはそういったサイクルが続くものだと思い、そのサイクルに疑問すら持ちませんでした。それが私の周りでは当たり前だったから。高給を得るにはそれに伴った対価(長時間の労働や特殊な技術)が必要だと。
つまりお金を絶対量として捉えているわけです。でも、お金というのはただルールを体現したものなので、絶対量ではありません。例えば、富士山で食べるカップラーメンは700円位の価格です。そのカップラーメンの価値はどうやって決まるのですか?時代が進んで、家庭でも自家製インスタントラーメンが作れるようになれば、カップラーメンの価値は数十円でしょう。はたまた、人間がまだ狩猟に頼っていた時代に、もしカップラーメンがあればその手軽さゆえ、かなりの価値があるのではないでしょうか?
私達は同じ時代に住んで、同じように暮らしています。それでも個人個人の良しとするところは違ってきますね。その違いこそが、先に書いたような未来人と原始人の違いなのだと思います。そのギャップを媒介する、生み出すことがこれからさらに重要な仕事になるでしょう(単純労働の仕事が人工知能によって減るため)。
お金をこういうギャップの架け橋と考えると、そこに必要以上の労働を掛けることは効果的でないように思えます。食塩を空気中で分子レベルにバラバラにすることは困難ですが、水に入れれば直ぐバラバラになります。もしあなたが食塩をバラバラにするならどちらの方法をとりますか?(ちょっと分かりにくい例えだったかもしれません)。
見方を変えると案外簡単だった、なんてことは良くあります。お金や身近なことは近すぎて、見直すチャンスがほとんどないのかもしれません。年末ということで、価値観の大掃除してみてはどうでしょう。
文章:FY(藤田雄人)
差分:±0.0kg(マジでさ、なんで!?)
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どうも。今更ヒートテックあったけーのCircreeのFYです。個人的にノースリーブのヒートテックシャツが欲しい(意味不明)。それは、冬に暖かい部屋でアイス食べる感じに似ている無駄感。
「嫌われる勇気」が結構売れて、アドラー心理学に関する書籍をちらほら見ます。アドラー心理学の肝は、他人と自分の課題を分離して、自分の課題ではないことに対して、はっきりNOを言うことが大事。周りに流されないこと、自分で決定することが自由である。と思っています。専門家じゃない私の印象だけの話ですが。
でも、皆が三者三様自由に行動することって可能なのですかね?(真にアドラー心理学を理解してないからこういう疑問が沸くのかもしれませんが)。互いに干渉しあわない距離感で生活が可能ならば、できそうですが、必ずしもそうではない。社会を形成するエージェントである我々が社会足るためには、相互に関係していることが必然だと考えます。したがって、互いに自由であるならば、それはもう社会として機能していないのではないか、と考えてしまいます。
そうならないために、他者が仲間であると考え、互いに互いを認め合うことが必須です。直感的に他者を仲間だと思うには、自分と同じルールに属していると感じる必要があると考えます。そうすると、異なるルールを持つ者をどうやって仲間にするのかが問題です。「人間」だから仲間?ちょっと厳しいですね。志でしょうか?それなら、宗教上の対立は起こらないはずです。
他者が仲間である、と考え受け入れることはある意味で非感情的な側面を持っているように感じてしまいます。全ての人間が他者を仲間だと受け入れるならば、その集団には仲間がいないと考えることと同じではないでしょうか。均一であればあるほど、不均一。それはすごく不気味に冷徹です。
他者と自分の課題を分離すること。それは課題を分離しない、できないことが前提にあるのではないでしょうか。究極的に課題を分離した先には何があるのですか?
表裏一体のその構成物を認識することが、本当の自由なのではないでしょうか。文章:FY(藤田雄人)
差分:-0.5kg
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どうも。この季節になると焼き芋が恋しくなりますね。近所の焼き芋売りは、これはもう悪ふざけレベルなんじゃないかと思うくらいの掛け声で、購買欲が失せてるCircreeのFYです。
よく「美味しいもの食べたい!」って聞きますね。それって何か具体的な対象が思い浮かんでるのでしょうか?例えば、好きな食べ物について、それが好きな理由って明確にわかりますか?味、食感等の漠然とした表現ではなく、もっと詳細な表現で説明できますか?
多分できませんね。なぜなら、その詳細な表現を可能にしている感覚器が、人それぞれ異なるからです。最近では、味覚センサーを利用した味の定量化が行われていますが、その数値が意味するのは個人の思う美味しさではなく、誰かにとっての美味しさです。その誰かが何百人の平均かも知れませんし、特定の個人かもしれません。
極端ですが、ファーストフードをよく食べる人100人の味覚の平均と、美食家で知られている北大路魯山人の味覚とのどっちがあなたの味覚に近いでしょうか。ある食品の宣伝文句としては圧倒的に魯山人が有効ですね。でも魯山人にとっての美味しさがあなたの美味しさになりますか?
ブランドがあるから美味しいと思うのではないでしょうか?口コミサイトでも、評価が高いと美味しいという刷り込みがあるのではないですか。実際に食べてみないとその店の味が自分に合っているかわかりませんよね。口コミやブランドを頼ることは、ある意味で自分の味覚は個性的ではなく、味評価ロボだと思っていることのなります。それなのに好き嫌いがある?なんか変ですね。
あなたにとっての美味しいは何ですか?結局、ブランドでも自分の経験でも、それを美味しいと思っていることが重要な要素です。不思議なことかもしれませんが、「食べる→美味しい!」よりも「美味しそう!→食べる」のほうが美味しのではないでしょうか。※よほどマズイものでない限り。
何か美味しいものが食べたいときは、「これ、絶対美味しいやつ!」って思うと幸せになれますよ。
文章:FY(藤田雄人)
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