療育を受けるにあたり、初めて発達のことで先生と話をすることになった。


療育を受けるには、診断をつけなくてはならない。


それに私は戸惑いました。



戸惑う私に先生が、

「診断名はあくまでも仮につけるもので、これから先変わって行くこともあるんだよ。まず診断名をつけてあげることから始まりなんよ。」
とおっしゃった。


あの頃の私は、診断をつけてもらうことを凄くためらっていた…


それは診断名をつけることで、決めつけや孤立があるんじゃないかと恐れたから…

保育園に入った頃のことが忘れられなくて、諦められたり、できないと決めつけられそうで怖かった。


診断名があっても一人一人個性があり一律ではないのに、その人その人が持っているイメージで判断されたりてしまうんじゃないかな…
と、思うと勇気がいった。



他の人から見たら、そんなことは当たり前で、私自身が考えていることが凄く滑稽なのかもしれない。



そう思ってしまうのは、現に病院の先生でも息子のことを
「こういう子達は…。」
とか、
「○○歳までに療育にこなければ、言うことをきかなくなる。」
とか、自分達とは違った存在かのような発言をされる。
風邪できているのに、口の中を診ようとしなかった。
胸の音も聞かないこともあった。


………。



先生は医者だけど心は診ようとはしないんですか?
データなどで、うちの子を判断しようとするんですか?
皆がしてる診察さえしてもらわれないんですか?
こういう子達ってなんですか?
もしもあなたがひとくくりにされ、中身を見ずに、間違っているかもしれない情報で、自分を判断されたらどう思われますか?



心で叫んでた。


当時の私はそう思ってた。


一度もし自分が言葉を話せなくて、ジェスチャーだけで相手に伝わるかということを娘とやってみた。

何度も伝わるために同じことを繰り返さなければならない。

そしたら伝わらないと、腹が立った。

伝えるためにはどうすればいいか考えた。

どうしてわからないの?と、はがゆくなった。


話せないということは、毎日がそういうことなのかと思ったら、息子の行動にも理解ができた。



そういう気持ちはお医者さまでもわからないだろう…。
自分ではないから同然のことなのかもしれないけれど…


だけど、覚悟を決めなければならなくなる時はくる。
 

「受容する」という言葉がある。


すぐ順応する場合や、何ヵ月も何年もかかる場合もあると思う。


いろんなことを乗り越えての今がある。 


その時は迷いもし、遠回りすることもあるかもしれないけれどやがて受容できることがある。


自分の気持ちだけでは生きていけない。
周りの環境で変えていかなければならない時があるからだ。


そうなると、気持ちが追い付いていかなくて難しくなる。


今なら理解ができる部分があっても、あの頃は違っていても仕方がない。

その時出合う人、言葉ひとつでも生き方が変わる時がある。