2019年。アメリカ。"Once Upon A Time In Hollywood".

 クエンティン・タランティーノ監督・脚本。

 タランティーノがシャロン・テート事件を映画化すると知った時には、アメリカ版『実録・連合赤軍』みたいなものになるのか、オリバー・ストーンかスコセッシあたりが取り扱いそうな題材でタランティーノには違和感がある、と思っていたら、マンソン・ファミリーがまさかのコメディ・リリーフとして扱われ、レオナルド・ディカプリオ(以後ディカプーと省略)演じる架空の俳優リック・ダルトンのみじめな敗北者の人生を慈愛に満ちたまなざしで描くことに重点が置かれており、タランティーノの最高傑作は『ジャッキー・ブラウン』だと思い込んでいる者にとっては、最高傑作が更新されたうれしい誤算となる映画だった。

 『ジャッキー・ブラウン』での最もエモーショナルな場面、ブラッドストーンの「ナチュラル・ハイ」が流れる中をパム・グリアがロバート・フォスターに向かってゆっくりと歩み寄ってくる場面に匹敵する、しっとりと情感豊かな場面がこの映画にもあった。

 

 イタリアへの出稼ぎ仕事から帰国する場面で、スターとしての輝きをすでに失ったディカプーの表情を映し出しながら、ローリング・ストーンズの「アウト・オブ・タイム」が流れる。時代に取り残された男の哀しみを優しく見つめるタランティーノの視線に寄りそうような旋律の美しい場面だった。オリジナルとは異なる、より哀し気なクリス・ファーロウのカバー版の演奏にミック・ジャガーが声を乗せたものが効果的に響いていた。ブルーアイド・ソウルそのものの上手な歌手であるクリス・ファーロウの哀感に満ちた声を使わず、あえてミック・ジャガーの薄っぺらな破れた声を使うところにタランティーノの選曲の意図があるのだろう。1969年と言えばローリング・ストーンズの「オルタモントの悲劇」の年でもあり、シャロン・テート事件と同様に世界に暗い影を落としたメレディス・ハンター事件の関係者であるストーンズの音楽を使う点に意味があったのかも知れない。

 この場面に漂う哀しみの深さはタランティーノが過去の映画の過剰な知識を総動員して創りあげた架空の俳優リック・ダルトンの人生に、タランティーノ自身が感じているであろう自分も「時代遅れの人物」の一人だという自覚から生じているのかも知れない。もはや自分の映画を喜んで見てくれるのは年寄りだけだ、若者はシャロン・テートの映画を見たことがないし、マカロニ西部劇にも興味を示さない、そもそもシャロン・テートの名前さえグーグルで検索して初めて知るほどの状態なのだ、そのような断絶にある種のあきらめ、絶望を感じて今後はプロデュース業に専念しようと考えているのかも知れない、リック・ダルトンとブラッド・ピット演じるクリフ・ブースという歴史の掃きだめの中へ消え去ったキャラクターへの思い入れの度合が過剰に大きいだけにそんなことを想像してしまう。

 

 音楽の使い方に感銘を受ける場面はいくつかあって、音楽だけ素晴らしい映画として悪名高い『いちご白書』の主題歌、バフィ・セント・マリーの「サークル・ゲーム」(ジョニ・ミッチェルのカバー)が『いちご白書』から解放されてシャロン・テートのドライブ場面を輝かせる音楽として機能している瞬間には、画面も音楽も観客も映画館全部が幸福に包まれているような錯覚を感じるほどだった。

 古臭いハードロックバンドだという固定観念しかなかったディープ・パープルの「ハッシュ」という曲が、ポランスキーとシャロン・テートがパーティー会場へドライブする場面で、当時ハリウッドでもっとも光り輝く存在だった二人をより輝かしいものとして演出する曲として見事に使われていた。こんなファンキーでソウルのある曲を演奏するバンドだったのか、という驚きがあった。

 

 1969年に遅れて生まれてしまった、という1969年コンプレックスをタランティーノなりに昇華した映画ととらえることも出来る。ラブ&ピースを身近で目撃した、あるいは身近な家族の誰かもヒッピー運動に感化されていたかも知れないタランティーノにとっては他と違う感慨もあるのだろう。

 20世紀末までの紀伊国屋書店などの大きな本屋のニュージャーナリズムっぽい翻訳本が集められた一画には、草思社の『ファミリー』というエド・サンダースという詩人が取材した、白地に赤の禍々しいイメージの表紙の本が必ず置いてあった記憶がある。「シャロン・テート殺人事件」という副題のその本や、同じ草思社の『ぼくらを撃つな』というアメリカのヒッピーや学生運動に取材した本などによって、あの時代に青春を過ごすとは特別なことであるに違いない、いや、あんな混乱した時期に生きていなくて良かった、という矛盾した感情、どちらにしろ羨ましいと思うなどの1969年コンプレックスに二十歳前後の一時期に取りつかれていた記憶がある。

IMDb

公式サイト

 マーゴット・ロビーが演じるシャロン・テートの愛らしい仕草をていねいに描いていく様子を見ながら、シャロン・テートなんて『哀愁の花びら』や『ポランスキーの吸血鬼』で見たはずだが大して記憶にない俳優に過ぎない、殺人事件に便乗した『ワイルド・パーティー』のほうが面白かった、という自分のような浅はかな映画ファンとはちょっとレベルが違うようだ、と思った。

 ここまで思い入れを込めて描くタランティーノとは、どこまで映画に取りつかれているのか、あるいはアメリカの映画マニアにとっては忘れがたい俳優なのか、アメリカ人でもシャロン・テートの名前はチャールズ・マンソンを連想させる怖ろしい名前だという認識が一般的なはずだが、この映画は過去のゴシップ記事からシャロン・テートという名前を解放しようとする試みでもあり、その演出の身振りがけなげで優しさに満ちたものだったせいで好意的に受け止められたのだろう。

 

 

 この映画の登場人物には、実在の人物にも架空の人物にも総じて穏やかで優しいまなざしが注がれているようだ。ファミリーに対してさえも優しいように見える。2020年代のスターになりそうな新人俳優が多数参加しているせいなのかも知れないが、牧場での場面や街を徘徊する場面はホラーな演出で統一されているものの、合衆国を震撼させた事件の容疑者を描くにしては眼差しが優しい印象がある。後にフォード大統領暗殺未遂事件を引き起こすリネット・フラムを演じるダコタ・ファニングにも相応の見せ場は用意されていた。優しいと言うよりタランティーノのファミリーやマンソンに対する興味のなさを反映した投げやりな適当さが優しさに見えただけかもしれない。

 

 これがファンタジー映画に過ぎないと思い知らされるラストシーンの哀切は素晴らしかった。物語を情感を込めてしっとりと語ろうと努力するタランティーノのメロドラマ演出が『ジャッキー・ブラウン』に続いて最大限に発揮された場面だった。トッド・ヘインズみたいにメロドラマを真正面から語るタランティーノ映画を見てみたくもなった。物語を上手に語る技術を持ってはいない、そういうタイプとは正反対の志向の作家だとみなされがちなタランティーノだが、『ジャッキー・ブラウン』とこの映画を見る限り素晴らしい物語作家だという気がする。報われない愛に苦しむ人々への共感が演出の手つきから垣間見えるからである。

 

 良い映画を見た、と感動していたが、Netflixで『マインド・ハンター』のシーズン2を見てしまったら、禍々しい事件を禍々しく描くさまに打ちのめされて映画の感動は薄らいでしまった。第5話に出てくるチャールズ・マンソンの刑務所での面会場面はすごかった。マンソンを演じるデイモン・ヘリマンは『ワンス・アポン・・』でもマンソンを演じていた俳優だった。殺人事件の中心だったテックス・ワトソンも登場するが映画でのイメージとは大きく異なっている。

 

 

 

 

 

哀愁の花びら [DVD] 哀愁の花びら [DVD]
1,000円
Amazon