2010年3月23日、黒澤生誕100年を迎える。しかし、私は生誕100年の感慨よりも、亡くなった1998年ことを強く思い出す。98年は映画界にとって、転換の年だった。黒澤明監督が9月になくなると、11月には淀川長治さん、そして12月末に木下恵介監督が逝った。映画界に大きな足跡を残した3人の巨人がほぼ同時に世を去ったことは、時代の区切りとして象徴的である。98年はある時代が終わり、次の時代が始まった年とも言える。


 もうひとつ終わりで言えば、銀座にあった名画座、並木座も閉館した。日本映画の古典を上映していた同館の閉館も区切りと感じる。一方、始まりは、韓国で日本映画が一般の映画館で上映されるようになった。商業劇場での日本映画の公開は、植民地時代以来、53年ぶりのことだった。そして、日本では、翌年以降、韓国映画の大攻勢が始まった。また「踊る大走査線」の劇場版が配給収入50億円(興収換算約101億円)の大ヒットを記録した。テレビ局は、この作品以前から映画に出資していたが、映画製作の主体は映画界にあった。しかし「踊る~」以降、テレビ局が主導的になって、いわゆるテレビ局映画の時代が始まった。先日、お亡くなりなられた奥山融さんが、松竹の社長を解任されたのも、この年で、松竹にとっては終わりと始まりだった。


 1998年の日本映画の公開本数は249本しかなかった。98年のキネ旬ベストテンは1位から並べると「HANA-BI」、「愛を乞うひと」、「がんばっていきまっしょい」、「カンゾー先生」、「CURE キュア」、「学校 Ⅲ」、「犬、走る DOG RACE」、「愚か者 傷だらけの天使」、「時雨の記」、「中国の鳥人」、「絆―きずなー」(10位同点)と充実している。以後、日本映画はバブル状態となって公開本数は増え続け、09年には448本に上った。公開本数が199本も増えて、いったい日本映画界に何が残ったのか。量から傑作が生まれるという考え方もあるが、結果を見ると、そうはならなかった。やり方が悪ければ、数打っても当たらない。ついに09年にはバブルも弾けて、映画業界は大きく揺れた。映画に対して、愛も思いもない人たちが、勝手に参入してきて、この世界を荒らしていった。彼らの多くは大金を失ったが、とばっちりを受けた元々の業界人もいた。玉石混交は、無数の石に玉が埋もれて、人の眼に止まらなくなった。98年ころから始まった、浮かれた時代が09年に終わった。


 先日、30年以上の業界歴のある仲間たちとの会合で、再び公開本数250本程度の時代に戻れば、映画に思いを寄せる人たちから、力強い作品が生まれるだろうという話しが出た。そのように期待したいが、当時の観客がそのまま高齢化し、若い観客が増えていないから、楽観的にはなれない。映画界は、また新しい時代を迎えようとしているが、どのような時代になるかは分からない。地上波デジタルの開始とともに、映画館の上映環境含めて、デジタル化は加速し、その影響は大きいかもしれない。しかし、どのような時代がきても、映画に対する思いが基本であることは間違いない。

(キネマ旬報 2010年4月下旬号)