昨年(08)の和歌山県、田辺・弁慶映画祭で市民審査員賞を「後楽園の母」で受賞した沖田修一監督の新作「南極料理人」が公開される。沖田監督は不登校児同士で鍋を食べる「鍋と友達」(02)で水戸短編映画再グランプリを受賞して注目され、以後、人間関係のズレをユーモラスに描いて、着実に実績を重ねてきた。その独特な間から生まれるユーモア感覚は、まだ32歳の監督とは思えない手練だ。昨年、私がプログラム・ディレクターを務める映画祭で、その沖田監督の作品を招待し、その後、メジャー・デビューを果たしたことは本当に喜ばしい。


 「南極料理人」は昭和基地からさらに奥まった、標高3000メートルを越えるところにある、気温氷点下50度のドームふじ基地が舞台で、そこではウィルスさえ生存することは出来ない。その閉ざされた世界で、観測活動のために集まった、8人の男たちの1年半の生活が、主人公の料理人の眼を通して描かれる。閉ざされた空間で、観測活動のほか、特に事件が起きることもない展開は非常に制約がある。西欧的なキャラクターなら、互いに強い自己主張をすることで激しい葛藤が起きるが、互いに相手を気遣う日本人同士では、激しくぶつかり合うこともない。それでも、長い単調な生活と、共同生活のための自制心から隊員たちの忍耐力もほころびてくる。彼らは、持ち込んだカップ・ラーメンを、南極滞在予定を半分残して、全て食べつくしてしまい、深く絶望する。そして、遠く離れた家族や遠距離恋愛の恋人との電話で、隊員それぞれの生活が浮かび上がってくる。閉ざされた世界にいながら、隊員それぞれのドラマが生まれる。沖田監督は、そんな隊員たちをユーモラスかつ優しく描き、見る側に切実に伝わってくる。


 私は、今まで、いくつかの映画祭やシナリオ公募に係わってきた。その多くは、何を訴えたいのか伝わってこない、または、伝えたいことが、受け取る側にも共感を呼ぶかまったく考えているとは思えない作品が多い。描かれているテーマに、まったく共感できないのだ。島田雅彦氏が、近著『小説作法ABC』で、「近頃、旅先で日本人の若い貧乏旅行者の姿を見かけることが少なくなりました。十年前まではアジア、ヨーロッパの街角で右往左往するバックパッカーといえば、日本人と決まっていたのですが、今は韓国人や台湾人にとって代わられました。(中略)そもそも旅の目的は自分を見つけることでした。異国を見る時の眼差しはそのまま自画像になる。インドに行っても、インドを発見するのではなく、ちっぽけな自我、やるせない日本を発見したのです」と書いている。島田氏が指摘するように、応募者の多くが、自身がちっぽけな自分であることに気付かず、独り言のような自分探し映画が作られる。そして、それを指摘すれば、“上目線”などと逆切れする。優れた企画は、とって代わられた韓国や台湾に多く見ることができる。


 沖田監督の「南極料理人」は、制約の多い設定で、ドラマと人物描写がバランスよく描かれている。ミニ・シアター系の作品は非常に厳しい環境におかれているが、何とか成功してほしい。

(キネマ旬報 2009年8月下旬号)