613日(土)、若松孝二監督による「愛のコリーダ」(76)製作秘話という講演を、城西国際大学で開催した。何故、このような講演を企画したかというと、若松監督の「連合赤軍 浅間山荘への道程」(07)の公開中に、多くの若い人たちから、当時の学生たちは、本気で革命が実現することを信じていたのかと訊かれたからだ。1970年に“よど号ハイジャック事件”が起き、反体制運動は過激化していった。そして、1972年、浅間山荘事件は起き、狂気の惨劇に心情的支持者たちの気持ちも離れていった。活動に係わらなかった人でさえ、同時代の空気を吸ったことで、ある種の挫折感、空虚感を味わった。革命でなくとも、変化が実現する期待を持っていた。若松監督がプロデューサーとなった「愛のコリーダ」は、そんな時に企画がスタートした。



キネマ旬報映画総合研究所 所長のシネマレポート
若松孝二監督

 「愛のコリーダ」は、フランスのプロデューサー、アナトール・ドーマンから、フランス映画社の故川喜多和子氏、柴田駿氏を通して、大島渚監督にもたらされた。映画界は世界的に性描写の解禁に向かっており、日本製のハードコア・ポルノを製作しようというものである。映画で描かれる“阿部貞事件”は“226事件”(1936)の直後に起きた。その後、日本は戦争の泥沼につきすすんでいく。若松プロデューサーと大島監督は、「愛のコリーダ」の底流に反戦を描き、ハードコア・ポルノを作ることで体制に挑戦した。象徴的なシーンがある。隊列を組んだ兵隊たちがザクザクと歩んでいくと、反対側から歩いてきた藤竜也扮するzzzとすれ違う。



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「愛のコリーダ」撮影中の大島監督(左)と若松プロデューサー

 若松プロデューサーは、難航したキャスティング、特に藤竜也氏とゴールデン街でひと晩飲んだときの話し、また、他の著名な俳優が「OKだけど」と言ってだした条件について、気を配った撮影、大島監督の演出、カンヌ映画祭での反応、しかられ役を押し付けられた助監督のサイ洋一氏のことなどについて、ユーモアたっぷりに話していただいた。そして、今回の講演を聞くと、学生たちが、“浅間山荘事件”を起こし、「愛のコリーダ」が製作された時代の気分が理解されたと思う。実際に、講演の前にビデオで見るようにと話した何人かの学生たちは、話しを聞いて、良く分かったとい言ってくれた。

 若松監督の次回作は、戦争で両手、両足を失い、勲章をたくさんもらって帰還した兵士を描いたもので、帰還兵は性機能だけは維持しており、性生活を通して、戦争の意味を問う。話題を呼ぶしたたかな企画性と、こだわり続ける思想性はますます盛んである。今年で73歳になる若松監督は、最低、あと3本は作りたいと言う。ヤワな映画が多いなか、3本といわず、もっと頑張ってほしい。

(キネマ旬報 2009年8月上旬号)