1960年代になると、新宿の映画館はその時代の流れに激しく揺られた。1964年の東京オリンピックに向けてテレビが急速に普及し、反比例して映画産業は斜陽化していった。日本映画産業のピークは5961年だったが、以後、坂を転げ落ちるように低落した。しかし、新宿の映画街だけは熱気に溢れていた。60年代後半は私が高校、大学を過ごした時代でもあり、最も映画を見ていたときで、その多くが新宿だった。70年安保を控え、新宿の地下道は連夜、集会が開かれ、機動隊と小競り合いを繰り返し、そんな街の空気が映画館にも充満していた。伊勢丹の前、現在の丸井のところにあった伝説の日活名画座には、当時、石を投げればイラストレーター、コピーライター志望に当たると言われるほどだったが、そんな雰囲気の若者が多数いた。一方、新宿文化ではATGの作品が上映され、その地下の蠍座では、さらにアンダーグランドな映画やライブが上演され、靖国通りを渡った花園神社では状況劇場の芝居が行われていた。当時の大学生の間では、全共闘雑誌化していた『映画評論』がよく読まれ、政治論争の殺気が映画館にも漂っていた。映画館のそれぞれに、上映作品の傾向と劇場に定着する観客がいったいとなって生み出す、その場所でしかない空気が溢れていた。

 しかし、そんな新宿の映画館の熱気も70年安保が終わると急速に冷えていった。そして映画産業の斜陽化にも拍車がかかった。苦境に陥っていた大映と日活は共同での配給会社ダイニチ映配を立ち上げていたが、うまくいかなかった。私は1971年の8月、「八月の濡れた砂」、「不良少女 魔子」の2本立てを新宿大映(その後の新宿ロマン/まさかこの劇場の最後のプログラムを編集するとは夢にも思わなかった)で見たが、ガラガラな場内は殺伐として、見る側の気分も荒んだ。ダイニチ映配はその後、2番組を上映して解散。日活は11月からロマン・ポルノ路線をスタート、大映は12月に倒産した。同じ12月、新宿文化で吉田喜重の「告白的女優論」を見るつもりで、上映前の時間を三越で潰していたら、ビルが揺れる爆発があった。新宿3丁目交差点のクリスマスツリー爆弾事件だった。同じ12月、黒澤明監督の自殺未遂もあった。映画界の周辺では暗い話しばかりがとびかった。72年には若松孝二監督が描いた“浅間山荘事件”が起こり、学生運動は過激化、退廃化して先細っていった。そして74年に新宿文化、蠍座が閉館することで、新宿的な映画文化も終焉を迎えた。70年代に入ると、都内には名画座が次々と誕生して、名画座情報誌、『シティロード』、『ぴあ』が創刊され、名画座全盛時代を迎えるが、反対に都内のロードショウ館は斜陽の中でもがいていた。1980年代に入ると、ビデオ・レンタルが普及し、名画座の多くは消滅した。一方、単館アート系の劇場が次々と誕生し、新宿ではシネマスクエアとうきゅうが先鞭をきった。しかし、単館アート系は渋谷で活性化し、新宿では広がらなかった。そして、90年代後半から2000年代に入ると、東京郊外にシネコンのオープンが続き、有楽町、渋谷、新宿といった都心の映画館はシネコンに観客を吸い取られた。戦後間もなく建設された新宿の映画館は老朽化しており、それらの劇場を取り壊して、新宿バルト9、新宿ピカデリーが誕生した。そして、この2つのシネコンのオープンによって、歌舞伎町の映画街は大きな打撃を受け、劇場の灯は50年強の歴史を経て半数が消えてしまった。60年代の新宿には多くの映画館があったが、そのほとんどは閉館してしまった。しかし、テアトル新宿、武蔵野館、K‘s cinema(旧昭和館)など未だに頑張っている劇場もあり、シネコンとは異なる個性的な番組で生き残ってほしい。

(キネマ旬報 2009年7月下旬号)