531日をもって、新宿歌舞伎町にある新宿ジョイシネマ123(ヒューマックス)が閉館した。歌舞伎町では417日に新宿トーア(東亜興行)が閉館し、さらに昨年末には新宿プラザ、新宿コマ東宝(TOHOシネマズ)も閉館している。新宿エリアでは2007年に新宿スカラ座123と新宿文化1234(現新宿シネマート12、角川シネマ12)が閉館している。これは、あきらかに新宿バルト99スクリーン)、新宿ピカデリー(10スクリーン)の2つのシネコンがオープンした影響である。日本最大の繁華街のひとつである新宿の映画館地図がここ数年で大きく変わった。そこで、今回は、新宿の映画館の歴史について触れてみたい。

 私は、198812月に「ザ・コップ」(デラ・コーポレーション配給)の上映で閉館した新宿ロマン(武蔵野興業)の最後の劇場プログラムで新宿の映画館の歴史を書かせてもらった。新宿武蔵野館がオープンしたのは1918年、キネマ旬報の創刊より1年前のことである。しかし、そのとき既に松竹の劇場が新宿では開業していた。新宿では新宿高野(1885年創業)、新宿中村屋(1901年創業)が営業しており、街に文化をということで、有志が集まり武蔵野館をオープンしたという。東京の映画館は浅草を基点に発展し、秋葉原、有楽町、麻布十番、四谷見附へと広がっていった。1910年代の新宿はまだまだ田舎で、弁士の徳川無声は、新宿の小屋から活弁の依頼を受けると、どんなところか下見に出かけたと自著の『徳川無声日記』に書いている。しかし、その後、洋画を上映していた武蔵野館をはじめ新宿の映画館は情報の発信地となり、早稲田高等学院に通う高校生時代にキネマ旬報の同人になった古川緑波など、文化的に背伸びをする若者たちで急速に発展していった。その武蔵野館が最初に建てられた場所だが、古くから新宿に住む方々や、四谷にある新宿区歴史博物館の方に聞いても分からなかった。武蔵野館は戦前にも、何度か移転しており、当時、京王線新宿駅は現在のバルト9の裏あたりにあり、現在の新宿はその頃から大きく変わってしまった。


キネマ旬報映画総合研究所 所長のシネマレポート


キネマ旬報映画総合研究所 所長のシネマレポート
戦前の新宿武蔵野館

 戦後になると、戦災復興を目的に、湿地帯だったコマ劇場周辺を埋め立て、歌舞伎の演舞のための劇場を中心とした街作り計画によって歌舞伎町と命名された。歌舞伎の誘致は果たせなかったが、名前だけが残った。また、西武線新宿駅がJR新宿駅に接続せず、歌舞伎町に面しているのも、この街を発展させるためだったという。1956(昭和31)年、新宿ミラノ座、新宿プラザが開業した。ジョイシネマの1館も56年にオープン、他の2館は1958年にオープンした。この58年には現在の歌舞伎町の映画街の陣容は整っていた。以後、歌舞伎町は日本でも最も興行収入の上がる映画街として賑わった。因みに、1956年は、東銀座にあった松竹セントラル、銀座1丁目にあったテアトル東京も開業している。映画全盛の幕開けの時であり、1000席以上の劇場が続々とオープンしたのだった。

(キネマ旬報 2009年7月上旬号)