当初予定していた冠動脈造影検査だけでなく、右心内膜心筋生体検査(生検)の2種類の心臓カテーテル検査を、昨日の午後、1時間掛けて同時併行の形で受けた。
結果、1月下旬に見送った腹腔鏡審査の実施について循環器内科サイドは消化器外科の方にゴーサインを出すことになり、明後日、6月、7月と続く入院を伴う全身麻酔の執刀を受ける方針が決定されることになるだろう。
その日程等については、金曜日における両科の診察結果を踏まえて、土曜日以降に「闘病日誌」の最後の記事として書きたい。
さて、案の定、検査入院した一昨日のアクセス数は日曜日の1/3、検査日となった昨日のアクセス数は同じく1/6の水準にまで落ちた。
4月末から5月下旬まで、4週間近くも新規記事の作成を見送った空白期間を下回る低レベルに戻った。
いかに本ブログの訪問者たちが、気紛れであることを示す証左と言うよりも、闘病生活の節目を迎えたブロガーを激励する気持ちの欠片もない薄情な振舞いぶりを物語るものと評するのは失礼か?
だが、そんなことは、今の私にはどうでもいいことだ。
それよりも、月曜日の午後からの入院の直前、本ブログの読者登録者のうち、3年間にわたり私のブログを読み続けた一番の読者にして、死を覚悟した私に寄り添うべく努力した方が、本ブログのフォローを放棄し、私の都合と考えを優先することを受け入れるという趣旨の意思表示をされた。
理由は不明だが、体調を崩し、心身の疲れから本ブログとの関わりを暫く休みたいとの意向も示された。
私のブログの記事の内容が悪影響を与えたことは疑いくなく、その意味で、一番読んで欲しい読者を失った以上、一般公開ブログとしての存続を止めるべきという結論に達した。
先月、売却できた実家の前の道路は、私が住み始めた昭和30年代は農道で、近所の運送業者の馬車が通行し、小学校への通学の際、馬糞を踏まないようにするのに苦労した。
トイレは汲み取り式で、悪臭を撒き散らすバキュームカーが運行し、田畑には肥溜めがあった。
しかし、人間の糞尿は有機肥料としての価値を持ち、農業を意味するagricultureは、文化を意味するcultureに通じる含意を持つものだ。
そう、田畑を耕すagricultureに対して、心を耕すcultureという訳だ。
だから、ネット・ユーザーたちから糞ブログの扱いを受けても、感性や好奇心が豊かな人たちにとっては、本ブログの記事が「心を耕す」意味を持つことを期待して、ブログ活動を5年余続けて来た。
それが、読者の心を不安定にし、体の不調まで引き起こすようになっては、存在する意味はない。
振り返れば、第1ブログのシネマナビ・ブログが軌道に乗った2年目に書いた某人気子役をマスコミが持ち上げることに対する異論記事に対して、彼女のファンらしき1人のネット・ユーザーから短時間で大量の抗議コメントを受けたのが、ブログ運営の難しさを実感した最初のトラブルだった。
そして、シネマナビ・ブログの自信を持って掲載した記事に対して、「詰まらない内容の記事を下手の文章でダラダラ書くな」という最悪のコメントに続き、重箱の隅を突く揚げ足し取りのコメントが相次ぎ、コメントを受け付けを止めることにした。
そもそも日本語を猛勉強すべきは、私よりも悪意のネット・ユーザーたちだが、善意の読者でも、私のブログ記事の内容を正当に理解しているのか疑問を感じ続けて来た。
先の愛読者ですら、直近の「イノセント・ボイス~12歳の戦場」の記事に対して、「面白かった」と評したのには首をかしげざるを得なかった。
ブログ記事に限らず映画や小説も、観た人、読んだ人の数だけ異なる解釈があり、正解はないと言うべきだが、穏当・妥当な解釈というものもある。
「イノセント・ボイス」の記事に対しては、「悲しいストーリーの映画だが、空へ飛ばす灯篭には共感した」いうのが、一番相応しいコメントだと思う。
今日、この記事をアップする前にアメンバーの申請に対しては「拒否」設定をした。
読者登録についても、3人だけ認めていた方を解除し、今後は誰からも受け付けない設定にした。
しかし、私に知らせず読者登録を行うことは可能なようなので、そんな隠れ読者を排除することはできない。
一方、「なう」のフォローについては、自分の営業的宣伝ブログに誘導するための申請に対しては、解除するだけでなく、「拒否」設定で対処して来たが、今後はすべてのフォロアーに対して同様の措置を講じる。(申請禁止措置ができない以上、モグラ叩きになっても仕方がない。)
もちろん、4週間の休止前に書いた「情熱大陸」の記事は未完成なので、書き上げる必要がある。
加えて、冒頭触れた「闘病日誌」の最後の記事だけでなく、ゴールデンウィーク以降、シネマナビは何をしていたかについては、6月上旬までの状況を映画、小説、音楽、ドラマなど項目別に整理した上で、最後の公開連載記事として書き終えたい。
それを読んで貰えれば、私が5月から6月にかけてどんな新規記事を書きたいと思ったかが分かるだろう。
それ以外の「リップヴァンウィンクルの花嫁」や「64-ロクヨン-」などの連載途中の記事は、すべてアメンバー限定記事として引き継ぎたい。
そして、「負け犬の遠吠えは無駄」と言うよりか、「馬鹿な国民(若者よりも60歳以上の高齢者)を見放した」と言うべき安倍政権に対する怒りの記事を放棄するのではなく、「ブロガー最期の一撃」として時々書くかもしれない。
また、一度は止めた「なう」の呟きを日々の日記代わりに再開したいが、誰かに伝えるためではなく自分自身の備忘録であるので、前述のようにフォローを求めない。
要するに、「なう」の呟きとアメンバー限定記事の掲載が続く限り、私は生きているということだ。
他サイトのシークレット・ブログでは、そんなことすら分からないので、名店の鰻屋ではないが、アメンバー限定記事のタイトルで美味しそうな匂いだけを撒き散らし、誰にも読ませないことで嗜虐的な自己満足を楽しみたい。
その結果、「性格が悪くなった」と私を非難する訪問者が当然いるだろうが、夫婦喧嘩や離婚でもどちらか一方が100%悪いということはない。
こんな私になったのは、私自身のせいであると同時に、一にかつて一緒に仕事をした同僚や部下たちからの無視であり、二に貴方を含む本ブログの訪問者たちの振舞いも要因である。
最後に、死期を覚悟した病人に寄り添うことの意味について書きたい。
それは、他ならぬ家族でも難しいことだ。
特に、私と違って薬の副作用などに激しく苦しむ肉親を間近に見ることは、家族にとって一番辛い。
本人が死を受け入れる覚悟をしつつ、家族の今後のことなど、やり残した最低限の責務を果たすまで生きれるよう本人が治療に耐えても、家族の方が動揺するケースも少なくない。
そう、重病患者自身が家族に寄り添う精神的余裕を持ち、最後まで努力することが重要なのだ。
だから、かつて一緒に仕事をした人たちならともかく、顔も知らないネット・ユーザーたちが私の病状を心配し、一喜一憂する意味はない。
ひねくれた者なら、「単に私が書いた記事を少しでも長く読みたいのが本音では」と思うかもしれないが、そう思ってくれる人がいることは幸せなことだ。
だからこそ、ネット・ユーザーたちは、死期の迫った患者であるブロガーが書いた記事を日々ちゃんと読み正当な理解に努めた上で、率直な感想をコメントや「なう」の呟きで継続的に知らせることが、一番寄り添うことになると、私は考えている。
残念ながら、本ブログでは、そんな期待は果たされなかったが…
下の画像は、かつてワシントンDCのポトマック河畔の公園に設置されていた「溺れる巨人」像。
断末魔の私のメタファーとして掲載したい。
