5月14日のリタ・ヘイワースの没後37周年を記念して、彼女の作品を紹介しています。
(1918年10月17日 生誕- 1987年5月14日死没)

 

『ミュージック・イン・マイ・ハート』(1940) 
監督 ジョセフ・サントリー
共演 トニー・マーティン
撮影 ジョン・スチュマー

【あらすじ】
ビザが明日で切れるため国外退去を迫られていた歌手ロバート・グレゴリーはこの夜代役でチャンスをつかみ舞台でデビューを飾った。
コンサートの後急いで船場へ向かうが自動車の接触事故で間に合わず、相手方の車に乗っていたパトリシアと出会う。
彼女はお金持ちの男との結婚を控えていたのだが取りやめとなる。
やがてパトリシアとグレゴリーは恋に落ちる。

 

シド・チャリシーの夫であり、1930年代後半~1950年代に活躍した歌手トニー・マーティンを主演にした作品です。
劇中歌の"It's a Blue World"はアカデミー賞にノミネートされたほどです。


まだまだハリウッド映画史の勉強が足りないのですが、この作品は70分という驚くべき短い作品なのです。
メジャー映画会社のビッグ5には入らないコロンビア映画は、こうした二本立ての前座にあたるような小作を量産していたということでしょうか。

また、映画監督のジョセフ・サントリーも、撮影監督のジョン・スチュマーというのも聞いたことのない名前です。
途方もない傑作ではないですが、素人が作った三流の作品ではなく、手堅い出来です。

1940年というハリウッド映画の絶頂期にあっては、映画関係者が分厚く層を作っており、多様な形態の作品をベルトコンベアのようにリリースしていたことが想像されます。

1918年に生まれ、1937年にフォックスからコロンビアに移籍したリタ・ヘイワースを迎えたのもこうした環境だったのです。


当時22歳のリタは、前年にハワード・ホークスの『コンドル』で、ジーン・アーサーとケーリー・グラントと共演し、1941年の『いちごブロンド』『血と砂』『踊る結婚式』でブレイクする直前です。

トニー・マーティンが見事な歌声を披露する一方、リタは、親戚が経営している下町のロシア料理店で踊ります。
普段着のまま、テーブルの上にあがって踊りを披露するシーンは、リタの親族たちとのケミストリーもあり、多幸感に満ちています。

黄金期のハリウッド映画は、あっさりはじまり、いつの間にかこうした楽しさ、多幸感にたどり着きます。
こうした視覚の芸術は、歴史上他にないでしょう。

そんな黄金期を支えた女優の1人がリタ・ヘイワースなのです。

 
























余談ですが、かつての日本映画界には「五社協定」という悪しき制度が存在していました。
日本の大手映画会社5社の松竹、東宝、大映、新東宝、東映が1953年に結んだ協定で、当時は日活の締め出しが主眼でした。
また、一社から干されると、事実上どこの会社でも出演不可能となりました。
大映にいた山本富士子が、1963年にフリー宣言をした後、映画界に出演はできなくなり、テレビや舞台に活路を見出さざるを得ませんでした。

1930-60年代の黄金期の日本映画は、ハリウッド映画やフランス映画に匹敵する素晴らしい文化遺産だと思いますが、ハリウッドに比べるとどこか物足りなさがあるのは、こうした前近代的な商習慣の存在によるのかもしれません。
 ※なお、五社協定は1971年まで続きました。

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