来る6月17日は原節子の生誕104周年です。
(1920年6月17日生誕 - 2015年9月5日死去)
それを記念して原節子の作品を紹介します。
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この作品は、言わずと知れた日本映画史に残る傑作です。
『東京物語』(1952)
監督 小津安二郎
撮影 厚田雄春
共演 笠智衆、東山千栄子、杉村春子、山村聡、香川京子
【あらすじ】
尾道に住む老夫婦、周吉ととみが東京で暮らす子供達を訪れるために上京する。
子供達は久しぶりの再会で二人を歓迎するが、それぞれ家庭の都合もあり、構ってばかりはいられない。
結局、戦死した次男の嫁、紀子が二人の世話をすることになる。
老夫婦は子供達がすっかり変わってしまったことに気づくのであった……。
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『東京物語』は、小津安二郎の最も有名な作品で、小津でまず1本というときには、必ず選ばれる作品です。
そして、戦後小津映画のヒロインを何度も務めた原節子が主演する「紀子三部作」の1つです。
(他に『晩春』『麦秋』)
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ここで取り上げたいのは、ラストシーンの手前で、原節子が笠智衆と交わす会話のシーンです。
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紀子「でも、このごろ思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです。わたくし、いつまでもこのままじゃいられないような気もするんです。このままこうして一人でいたら、いったいどうなるんだろうなんて。夜中にふと考えたりすることがあるんです。一日一日が何事もなく過ぎてゆくのがとっても寂しいんです。どこか心の隅で何かを待ってるんです。ずるいんです」
周吉「ええんじゃよ、それで。やっぱりあんたはええ人じゃよ。正直で」
紀子「とんでもない」
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ここで原節子が口にする「とんでもない」というセリフの唐突さについて、蓮實重彦は以下のように語っています。
ほとんど相手の無理解を非難するような「とんでもない」という否定の言辞が、原節子の唇から洩れるとき、見る者は胸をつかれた思いがする。
彼女は相手の言葉を真剣に否定しているからです。
あの「とんでもない」は一体なんだったのか。
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私たちは、原節子のセリフに感動しつつも、なぜ原節子は一瞬語気が強くなったのかについては、分かりません。
ここで言いたいのは、ともすれば、安易に「家族の絆のもろさと真心」とでも要約されそうな、この「名作」映画には、そのような説明がつかない「深淵」のような細部が無数に潜んでいるということです。
だからこそ、『東京物語』は一度で観た程度で「観た」などと言うべきではないように思います。
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さて、この映画には、上記のような「深淵」のようなシーンを含め、忘れがたいシーンが無数にあります。
先のシーンの直後の嗚咽のシーンについて語りたいと思います。
上記の「とんでもない」の後、笠智衆は何事もなかったかのように、その場を去るのですが、残った原節子は手で顔を覆って嗚咽します。
「なんだ、原節子は大根役者じゃないか。顔を覆って泣くなんて、大袈裟だ。人は本当に泣くときは、そんな泣き方をしないものだ。リアリズムを欠いている。」と。
この手の無神経さは、映画批評には必ずついてまわります。
ストラスバーグのメソッド演技の悪影響でしょうか。
そもそも、舞台と映画は違います。
こうした、手で顔を覆って泣くという、紋切り型の演技こそがいいのです。
映画は、画面同士を繋ぎ合わさることで、感動が生まれる不思議な芸術です。
実のところ、壮大な紙芝居なのです。
端的に言えば「このショットと、このショットを繋げると、異様な力がある」という話です。
小津の役者たちの棒読みのようなセリフ、紋切り型の演技、そうしたものは、小津の編集のリズムで語られることにより、不思議な力が宿ります。
そして、それは本当の現実などよりも、もっと強いリアリティを持っていて、私たちの心を揺さぶるのです。
小津と原節子の組み合わせこそが、映画的な感動の源泉なのです。
(いかに演劇界で評価が高くとも、ローレンス・オリヴィエは映画男優としてはいま一つなのは、そうした理由によります。)
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