記念すべき一発目の雑文です。

 何を書くか迷った結果、漫画『迷走王・ボーダー』(作・狩撫麻礼 画・たなか亜希夫)について少し書きます。

 このブログを読む人なんているのかわかりませんが、人によっては気分を害す文章が出てくるかもしれませんので、その際は即刻読むのをやめてもらって構いません。気を悪くしないでくださいm(_ _)m

 

 

 

 念のため、あらすじを、、、

 

 いい年をして安アパート「月光荘」の便所部屋でその日暮らしの極貧生活を送る粗暴な蜂須賀と、同じく無職で素性不明の久保田、東大志望の浪人生(のち合格)で、蜂須賀に迷惑をかけられながらも行動を共にする木村の3人が巻き起こす騒動を描いた物語。自分たちから見て「あちら側」と称した世界(つまり唾棄すべき一般人の世界)と「こちら側」との境界線上を行く者という意味で「ボーダー」という生き方を選んだ3人の生き様を、時にはリリカルに時にはコミカルに描く。(Wikipedia参照)

 

 

 

 とにかく、この作品はキャラクターがものすごく良いです。それは僕が彼らにシンパシーを感じてるからかもしれませんが、この三人は確かに”生きている”という感じがするのです。

 蜂須賀は自らの人生観を「こちら側」「あちら側」という言葉で定義します。「こちら側」は蜂須賀や久保田、木村が住む世界です。さらに具体化すると、働かずにボロボロのアパート(蜂須賀が住んでいるのは家賃三千円の便所部屋)に住み、昼間っから安酒を飲み、シケモクを吸い、近所の未亡人とねんごろになり、時にはとてもリスキーな仕事で金を得たりするような生活のことです。このような生活様式は、端から見れば、落伍者あるいはホームレスと大差ないと感じる人もいるかもしれません。しかし、彼らはプライドがないわけではありませんし、卑屈になっているわけでもありません。

 では、「あちら側」とはどのような生活のことを指すのでしょうか。作品内において蜂須賀は繁華街にいる女性やカラオケにいる若者などを見て、「あちら側」と分類している描写があります。今風にいうと、リア充と形容することもできるでしょうし、堅実に生きる会社員なども含まれるかもしれません。さらには職業や身分といった明確に定義できるものではなく、個人個人が持つ性格や理念のような形而上的なものでも分類できるかもしれません。そして、蜂須賀は「あちら側」に住む人間を敵視している節があります。しかしその基準は曖昧で、判然としていません。

 一般的には蜂須賀や久保田のような世捨て人的生き方は社会では受け入れられませんし、マイノリティーと言えるでしょう。とすると、蜂須賀の価値基準はいわゆる一般の人々が持つ価値基準とは真逆だといえるでしょう。蜂須賀の考えは、未熟と捉えることもでき、大変青臭いルサンチマンに過ぎないかもしれません。おそらくこれらの考えには狩撫麻礼自身の思想が反映されている可能性が高いのではと思います。そしてその根本にあるのは、レベル・ミュージックであるレゲエや新左翼的な思想なのではないかと推測します。

 狩撫麻礼のブラック・ミュージックへの傾倒は有名で、蜂須賀も作品内でレゲエに影響されたうんぬんというシーンが頻出します。さらに、「おれの二十代、あれはこの国で左翼がいくらかマシな唯一度の季節だった」(双葉文庫vol.6)というセリフも出てきます。『迷走王・ボーダー』は、1986~1989年にかけて「漫画アクション」にて連載されていました。蜂須賀の年齢が四十歳と判明する箇所があるので、蜂須賀が全共闘世代を生きたのはほぼ間違いないと思います。狩撫麻礼も1947年生まれです。この一致は非常に興味深いものです。このことから狩撫麻礼自身を一番投影したキャラクターが蜂須賀かもしれないという仮説が成り立ちます。あくまで一側面の話ではありますが。。

 

 

 

 僕も自身の人格形成においてレゲエに影響を受けた部分が少なからずあります。そして、蜂須賀や久保田のように世界を旅するというようなダイナミックなものではありませんが、高卒認定の資格を取り大学受験するまで、様々なことを経験しました。それらについては機会があれば詳しく書きたいと思います。。

 

 

 

 僕がこの漫画を読んで一番魅力的に感じたのは、蜂須賀でした。彼は非常に不思議なキャラクターです。普段は暴力的でトラブルメーカーでもありますが、女性には優しく、また嘘をつけないタイプでもあります。端的にいえば、とても人間くさいのです。そして前述したように蜂須賀の人生観は世の中とは真逆です。一方で、蜂須賀は誰よりも自由です。だから僕は蜂須賀に憧れるのでしょう。というと、インテリから「自由って何かね?」とか言われるかもしれませんが、自由は自由だよバカと言い返して、しばき倒してやりましょう。笑 不恰好で、世間からは甘いだのなんだのと罵倒されるかもしれませんが、クソったれにはクソったれと言ってやりましょう。

 

 

 

 『迷走王・ボーダー』の主題は価値観と自由だと考えます。しかしそれは人によって千差万別でしょう。問題は一つでも答えは無限にあるのだと思います。蜂須賀、久保田、木村の三人は息苦しい社会でそれを体現しようとする様を読者に見せてくれます。

(といっても漫画はコメディ色が強いのでけっこう笑えます) 蜂須賀や久保田は「おれたちは社会と隔絶されたところにいる」というようなことをよく言います。しかも彼らは自ら望んで社会の枠の外に飛び出しているのです。なぜ彼らがボーダーの道を選択したのかにも理由はあるので、それは是非漫画を読んで楽しんでほしいです。

 ところで、このような漫画が書かれた背景には、時代に寄るものが大きいのではないでしょうか。『迷走王・ボーダー』が連載されていた時期はバブルの真っ最中です。僕は平成生まれなので実際の空気感はわかりませんが、日本社会全体が相当に浮かれていたのは事実だと思います。当時は、毎日が物質主義の見本市だったのでしょう。即物的な快楽に溺れたプチブルどもがシャンパン片手に女のまんこをいじくり、めくらが高級スポーツカーを乗り回していたのでしょう、どうせ。従ってそのような時代に対するカウンターとして書かれた漫画であるとも考えられます。

 つまり狩撫麻礼は『迷走王・ボーダー』において、時代へのアンチ・テーゼを掲げると共に、当時世の中に蔓延していた生き方とは全く別な生き方を提示しようとしたのかもしれません。そう考えると、「あちら側」と「こちら側」の間に引かれたボーダーラインがはっきりと見えるような気がします。

 

 

 最後に僕が好きなセリフを紹介します。

「おれは目に見えるものだけを信じる奴には理解されねえ」という蜂須賀のセリフです。字面だけを見るとケツの青さが透けて見えてムズムズします。が、実際に読んでみるととても感銘を受けてしまうのです。笑

 

 

以上簡単ではありましたが、『迷走王・ボーダー』について書いてみました。是非一読してみてください〜