肉体と精神にひりひりと切迫する、
生きることへの猛進と後退、その拮抗。
2重の世界に爪先立ち、現実と虚構の臨界点で、
生きろ。と言ったのは誰だったのか。

 

『KOTOKO』
2011年/日本/91min
監督・制作・企画・脚本・撮影・編集・出演:塚本晋也
企画・原案・音楽・美術・出演:cocco

coccoの歌と存在感に兼ねてから魅了されていたという塚本監督が、彼女と2人、映画という映像言語で“生きることの脆さ”を体当たりで表現した意欲作。愛する人を守り切れなくなってゆく強迫観念と恐怖感を、世界がふたつに見えてしまうという精神崩壊の境地としてじりじりと炙り出す。coccoの世界観にもリンクするような、ぞっとする程に壮絶で、はっとする程に繊細な絶妙な仕上がりを見せている。

是枝監督2008年のドキュメンタリ映画『大丈夫であるように~Cocco 終らない旅~』の中で、coccoが最後に放つ言葉は「生きろ。」だった。それはまるで自分自身への恫喝のようでもあった。生きろと言ったcoccoはしかし、その数か月後に摂食障害で入院したという。
私は祈った。coccoが大丈夫であるようにと。


そして劇映画初主演となるこの『KOTOKO』の中で、coccoはやはり「生きろ」と恫喝する。生きている実感を得たいが為の自傷行為。滴る赤い血がKOTOKOに「生きろ」と言うのだ。その声を聞きたくて彼女はそれを繰り返す。やみくもに繰り返す。

やっと世界がひとつになると思えた田中との出会い。愛を得たKOTOKOはしかし、彼を際限なく傷つける。切り刻まれ腫れ上がる顔を向け男は尚も。「大丈夫、大丈夫、大丈夫だから」と。

生後間もないひとり息子の存在。大事なものへの愛の向け方が解らない。愛し方が解らない。ただただそれを愛するあまりに。

世界は悪で満ちている。愛を守るための彼女の自己防衛が虚構の世界を創り出す。白昼のありふれた現実のヒトコマに、覆い重なる虚構との2重構造の映像が、折れそうに細い彼女の肉体と精神に迫りくるその狂気の凄まじさ。その恐怖感と言ったら筆舌に尽し難く。現実から押し出されそうになる脅迫にも似た後ずさり感。
それはかつてない映像体験で。


できない、ちゃんとできない。
KOTOKOは度々絶望する。激しく絶望する。
母でありたいだけなのに。この子を守りたいだけなのに。


そんなKOTOKOも仕事を持つが、不気味なまでに歪んだ色鉛筆のアンダーラインが伝えるのは、彼女の神経衰弱ギリギリの剥き出し。力の限りに押し引かれる線を描く色鉛筆の華奢な存在は、彼女の身体とリンクする。或いは引かれるその赤は、腕に流れる血の筋のそれだったかもしれずに。

死なずに生きること、傷つかずに生きることの、不可能に近いまでの難しさ。思いと脳が違うバランスを取る。生きることがこれ程までに脆いとは。けれど脆さの果てに強さがあることを人は知っている。
だから、生きていかれる。


受け入れ難いこの世界から何より大切な命を守るために、KOTOKOが選んだ唯一の方法。得体の知れないものに奪われるくらいならいっそのこと自分のこの手で。痛くないように、苦しくないように。

それから幾月が流れたかは彼女にも解らない。KOTOKOの中で時は止まり、色の無い箱の中で生き長らえる彼女はいまや、歌の中でしか息をしない。息子の面会と聞いた彼女はふと思考を巡らせるがうまくは掴めない。残された1枚の折り紙が辛うじての記憶を語りかける。無表情に見えたKOTOKOの身の内はきっと、彼女にしか気付き得ない温かいものが流れていたであろう。腕に滴る血の温度のかわりとなる何かが。

痛みのある作品だ。だから観る側も決して無傷ではいられない。KOTOKOの刃に無数の切り傷を負わされる。人によりその傷は浅くも深くもなるだろう。しかし最後に誰もが思い至る。

生きればいいんだと。
ただ、生きればいいんだと。


『KOTOKO』:2012年4月24日 シネリーブル神戸にて鑑賞

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クレジットが非常に興味深い。ふたりの二人三脚がここに凝縮されている。
coccoは美術も担当しているようだ。大二郎の部屋の手作りのものたちはcoccoの手により作られたものだろう。クランクイン直後に震災があったこともあり、ひときわ千羽鶴の存在が意味深長だった。