悲嘆を乞い、苦痛を乞い、絶望を乞う者。
3人の乞食が現れれば、そこには死が訪れる。
果たして死を乞うたのは、誰であったのか。


シネマな時間に考察を。

『アンチクライスト』 ANTICHRIST
2009年/デンマーク,独,仏,スウェーデン,伊,蘭/104min
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:シャルロット・ゲンズブール、ウィレム・デフォー


シネマな時間に考察を。 夫婦に名前はない。
かれらは単なる妻と夫。男と女であるばかり。
かれらがエデンと名付けた森に、ふたりきり。

アダムとイヴの象徴なのか、それをアンチするのかは解らない。


悲嘆の鹿と苦痛の狐、そして絶望の烏。
3人の賢者ならぬ、3人の乞食とは。


シネマな時間に考察を。 概ねキリストの教義に基いた物語であることは疑いの余地もなく、その教義について何ら持ち合わせのない私にはそこに暗示されている筈のものを巧く汲み取ることはできないが、世の理と摂理、人の成り立ち、肉欲と罪についての光と影を、否応にもざわり、と生肌に感じさせてくれた。


神と悪魔、CHRISTとSATANの、離反しながらもやがては背中合わせに接合してゆく世界の終焉を、幻想的で魅惑的、超刺激的な映像技巧を以って大胆かつ繊細に描き切り、監督自身のパーソナルな心の影へといざなわれるままにいつしか入り込んでしまう。


シネマな時間に考察を。 目の前に見えているもの、そのものの奥にある本質を覗くという行為こそが、トリアー作品への全うなアプローチであり、今回ばかりは恐らく彼自身もがその行為を自作によって体験すべく本作を撮り上げたのではないかとさえ思われる。


1秒間を30フレームで捉えるハイスピードカメラで映し出される超スローモーションのモノクロ映像。冒頭のその感嘆たる神々しき映像美ときたら、息をするのも忘れるほどに。ミュートされたモノクロームは、哀しくも美しいアリアに乗せて、プロローグとエピローグを繋いでゆく。


世界の創造主は神ではなく悪魔だというならば、彼女がこうまでして自然を恐怖した理由は明白だ。緑が生い茂り、誕生に蠢く生命の象徴という“自然”に対するイメージは、人が平穏な心地でいられるためにでっち上げた虚構なのかもしれない。若しくはユートピアの存在を信じたいがための、この世で得られる理想郷としての代替品として。


しかしながら森を抜ける車窓から流れ去る景色の中に紛れるものは、

おぞましい輪郭を歪める声なき悪霊たち。


夫は妻に、草の上に身を沈めて緑に溶け込めと言った。君はいつでもそこに居ろと。とんでもない。自然は悪魔の教会だと妻は言う。夫は自分をそこへ閉じ込めようとしていると、彼女はそう受け取った。


シネマな時間に考察を。 大木から落下して容赦なく屋根を叩きつける無数のドングリの実も、巣から転落した雛鳥が即座に虫や鳥に喰われる無残な有り様も、大地から振り注ぐ雨や雪のひとしずくでさえ全ては“死”を表している。死にゆく者の声が聞こえるの、と彼女は言った。自然ほど死の傍にあるものはない。だから彼女は森が泣くのを聞いたのだ。


けれども多分、彼女が深い心の闇に引き摺られた事のきっかけは、生活の中の些細なことだったのだろうと思う。夫から距離を置かれていると感じてしまう孤独だったり、幼い我が子が母である自分を求めていないと感じる間違った哀しみだったり。夜中にベビーベッドを抜け出して歩き回る息子を「いつも私から離れていく子だった」と彼女は言う。


エデンの森に建つ小屋で息子と過ごしたひと夏。

息子の足に靴を左右反対に履かせ続けたのは、子供を傷めつけるための虐待的行為ではなく、そうやって歩行しづらくすることで自分の元から遠くへ行かせないようにするための束縛的行為だったのだろう。

夫の左足にドリルで砥石を履かせたのだって、そう。


シネマな時間に考察を。 子供と夫への偏愛と依存。

彼女の悲嘆と苦痛と絶望を喰らうために悪魔は女の心に参上した。救世主となるはずの夫が犠牲者となったのは何故ゆえか。彼の罪は何だったのか。彼は彼女を愛していたが、夫としての労わりよりもセラピストとしてのエゴが強く出てしまったが故の悲劇だったに違いない。


物質の中に含有される空気と大気中の空気がバランスを保つからこそ、マテリアルはマテリアルとして在り続けられる。

nature(自然)もhuman_nature(人間性)も共にnatureを共有する。

自然が神により創られたのならば、人もまた神によって創られたのであろうし、自然が悪魔により創造されしものならば、人もまた然りであろう。


しかしながら、

肉欲の原罪となる物質的なものを如何にして切断しようとも、

人の持つ罪深さが消えることはない。


タイトルバックに血色で書き殴られたタイトル文字"ANTISHRIST"の、

最後の"T"は♀を象っている。それはかつて中世に魔女と畏怖された女性の性そのものであり、また十字架のようでもある。

さして女の背負う十字架とは。


森の中で無数に見え隠れする死体のような白い肢体。

じっとしているのにどよめきにも似た蠢きが感覚をさわさわと刺激する。

自然を形成する死の重なり。

地層のように蓄積していく死の層が、エデンの森に重鎮する。


妻の死を以って生き延びた夫が見たものは、

解放されし無数の顔なき魂たち。

それらは麓からわらわらと斜面を登ってやってくる。

弔いなのか昇天なのかは解らない。

囚われの魂が今こそ重い足かせを裁ち切り、自由の身となり歩き出す。


序章のタイトルに"welcome"と書かれていたことを今一度思い返し、
闇に誘われることに人は決して抗えないのだと思い知る。


けれど幸いにして私の目には、森や自然はどこまでも美しく映る。

そこに恐怖や束縛はなく、澄みやかで果てしない自由ばかりを感じる。


ならば今、己の心に闇はない。
光に包まれて生かされている。
それは人としてとても幸せなことなのだと。


それでもやはり。


心の闇を覗くことは、
カーテンの裏を覗くことくらい、
たやすいことなのかもしれない。



『アンチクライスト』:2011年5月1日 元町映画館にて鑑賞



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誰に何と言われようが、私にとって、
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ほど大切にしたい映画は他にない。

他と比較の仕様がないほど孤高のベストシネマである。

誰かがこの映画に石を投げようとするならば、私は身を呈してもこの作品を守る。


2000年12月、この映画を観ながら生まれて初めて“魂”を感じた時のことは忘れない。
身体から飛び出して左胸の上あたりに漂う、
己の魂がむき出しに晒されているのを恐ろしいくらいに感じた。映画館で3回観た。
『奇蹟の海』も『ドッグヴィル』も忘れられない作品であり、
要するに私はトリアーを信じている。


彼の次回作"Melancholia"には、再度シャルロット・ゲンズブールが起用されているらしい。ダンサー~のビョークは残念ながら撮影後に「二度と映画には出ない」と言い放ったけど、シャルロットは続けての出演、心から嬉しく思う。

そして本作で魅せた彼女の“魂”の演技には、心から労いの拍手を贈りたい。