再三申し上げていますが、キリスト教というのは史上最悪の殺人カルト宗教です。

藤原直哉さんの動画にキリスト教についての話題がありました。

 

 

この方、マドモアゼル愛さんと座談会をしていたり西洋占星術に傾倒している感じが見受けられます。質問者に○○宇宙人とか神とか変なこと言っているスピ系女性が出てきたりとか少々癖はあるんですけど、そこを早送りでスルーしつつ政治経済に関することはとてもためになるので参考にさせていただいています。

 

文字起こしします。1:03:21からになります。

キリスト教や教徒は今後どうなってくお考えですか?
ロシア人は東方教会の流れを引くロシア正教こそ正統と思ってるようですし、また敬虔なカトリックの信者は、聖職者の実態を知った時、そのアイデンティティはどこに向かうとお考えになられますか?


いいご質問ですね。
今回例えばさ、キエフありますよね。ウクライナのキエフね。
あそこはあのご承知の通り、そのキリスト教の正教会の発祥の地ですよね。
その正教会の発祥の地をですね、ゼレンスキーはねキリスト教禁止にしたわけです。もってのほかということでありますけどね。でもそういう意味ではなんて言いますかね。それぞれ皆さん正統があってね、キリスト教も全く1つじゃないですから。
まぁ自分たちの大事にする教派をその大事にして守ってくというのは1つの方向性としてあり得ますね。
聖職者の実態を知った時どうなるなんですけども、じゃあこのこの点について、これある人と面白い話してましてね、まぁ友人なんですけどもね。

これなかなかこれキリスト教大変だぞと。ユダヤ教との関係ね。

ユダヤ教との関係大変で、旧約でいくか新約でいくかって話ですよね。
あれね。どうなんのかなと。まとまんのかなと。
今回アブラハム合意ってあったじゃないですか。イスラムキリストユダヤね。3つ
まとまると。で、イスラムとユダヤはいいのよ。あれね。ユダヤとイスラム今でも実は共存共栄でやってんですね。あれ。イスラエルがなんかそれをさ、対立させてるだけで。

問題はキリストとユダヤなんですよね。あれね。うん、キリストとユダヤはね、あれはなかなか大変だと思うの。
で、
元々キリスト教って実は原罪ってないんですよね。
ほらもって罪を持って生まれてくるという原罪がなくて実は昨日も沖縄行ってですね、非常にすごい方いましてね。この本を翻訳した方いるんですね。
これ見えますかね。この本ね『キリスト意識と豊かさについて』。
あの偽我ってね、偽の我の幻想から脱するためにこの翻訳された方で大湾さんって沖縄の方なんですけどもね。
これ実はクリスマスの時にAmazonでうん、これ宗教関係の本で1位になったんですね。これ売上の。この方もちょうどその話でですね、

「いや原罪って言うけどさ、それ最初原罪って言ってないですね。」って言ったら、
「いや藤原さんその通りなんですよ。」と。

「キリスト教って最初原罪ってないんですよ。」と。

「あれはひどいんですよ。」と。
布教のためにあえて原罪と言って免罪符を売り出したんだと。
原罪があると言って免罪符を売り出すセットになった陰謀みたいなもんだとおっしゃるんだよね。

いやなるほどね。そういうことかと。面白いですね。

いやだからそういうのがありますとね、その原罪と要するにだから聖職者の問題でしょ。聖職者ってことはキリスト教会の問題だから教会の発展のために原罪というね、話を持ってきちゃったったら、これはひっくり返りますぞ。その可能性はある、うん。今回はあると思う。原罪が嘘だったって話ね。
あ、
原罪こそ教会の陰謀だったってあると思うな、うん。これは面白いと思います。

 

まず原罪とはなんですけど、悪魔の化身である蛇にそそのかされアダムとイブが知恵の実を食べてしまったこと。ご存じかと思います。

 

 

それによって二人はエデンの園を追放になった話です。

 

 

旧約聖書の創世記にある話ですね。

ここにパウロの解釈が入り原罪ができました。

イエスが存命の時はおそらくなかったんでしょうね。

引用します。

神は天地万物を創造し、人間はエデンの園で楽しく暮らしていたが、 神の教えを守らず、禁断の知恵の実を食べてしまって、原罪を背負ってしまった。イエスは全人類に代わって贖罪し、十字架にかかって刑死した後に復活した。イエスこそが全人類の救世主メシア(キリスト)である。
パウロが説いたといわれるイエスの教えには、その頃までに伝えられていたイエスの物語と、パウロが創造した物語が含まれていたと思われます。

哲学と宗教全史 出口治明 著

 

ただ、正教会とカトリックでは原罪の理解が異なります。
正教会はカトリックで言うような「原罪のせいで人は生まれながらに罪人である」というような考えを持っていないのです。ここ、重要だと思います。
カトリックでは人はアダムの罪をすべての人類が背負い引き継ぐと考えますが、正教会では「人はアダムの罪の結果の下にある」と考えてきたため、原罪の罪を引き継ぐという考えがないのが特徴です。
つまりアダムはアダム、その他の人類はその他の人類なわけで関係なく、ただ過去にアダムが罪を犯した結果である世界に生きているにすぎないというものです。

 

一方、カトリックはかなり信仰が捻じ曲げられています。

 

パウロの説く原罪に更なる解釈を加えてしまった人物がいます。

キリスト教がローマ帝国で国教化され、逆に権力をふるう側となりました。既に三位一体説は正統となっていますがまだまだ信仰の解釈の論争、派閥争いは続きました。
そして、この激しい神学論争で見事勝利をおさめ、キリスト教組織をひとつにま
とめあげる教義をつくった人物が、キリスト教最大の教父と呼ばれるアウグスティヌ
ス (354年~430年)です。

 

アウグスティヌスは、ドナティスト派やペラギウス派など、当時、広く支持されて
いたさまざまな宗派の司祭たちと激しく論争を繰り広げた。そして、彼らを徹底的に
論破。彼らの教義を異端としてキリスト教から排除することに成功したのである。
と、こんな感じで、キリスト教の「教義統一」という偉業を成し遂げたアウグステ
イヌスであったが、実のところ、彼は決して生まれながらの敬虔なキリスト教信者で
はなかった。彼は、三二歳でキリスト教に入った回心者にすぎなかったのである。
それまで彼が何をしていたかというと、マニ教や新プラトン主義など、あっちに
ふらふら、こっちにふらふらと、他の宗教や哲学思想を渡り歩いていたのだ。彼は、
ホントウの宗教を求めてさまよい続け、最後にキリスト教にやってきたのである。
だが、そのさまざまな宗教・哲学の遍歴が、彼にとって大きなプラスとなっていた。
なぜなら、他の宗教や哲学を知ることで、キリスト教を客観的な立場で眺めることが
できたからだ。
たとえば、キリスト教の神は、唯一絶対の創造神であるが、「では、なぜ神は悪を
つくったのだろうか?」という問題を考えてみてほしい。アウグスティヌスが、昔入信していたマニ教では、この世界には「善の神」と「悪の神」がいることになっていたから、悪が存在することは全然問題なかった。悪が存在するのは、悪の神のせいにすればいいからだ。
だが、キリスト教では神は一人しかいないのだからそうはいかない。神が一人で世
界をすべてつくったのだから、世の中の悪も神がつくり出したということになる。
まり、「神こそが諸悪の根源!」というとんでもない結論が導かれてしまうのだ。
アウグスティヌスは、この問題について自ら考え抜き、こんな結論を出した。
「いやいや、唯一絶対の神は、やはり完璧な善の存在である。人間には悪が存在する
ように見えるが、実は、その悪とは、ただ善の不在にすぎない。闇が、ただ光の不在
であり、闇という確固たるものが存在するわけではないのと同様に、悪も確固たる実
体として存在するわけではない。だから、神が、悪と呼ばれる何かをつくり出したと
いうわけではないのだ」「しかし、神は人間を愛するあまり、人間に自由意志を与えたもうた。だが、それゆえに人間は神の意図から外れる行動を、すなわち、悪をなすようになった。これこそが、人間が生まれながら背負っている原罪なのである」
と、こんなふうに、アウグスティヌスは考えたといわれるが、随所に古代の哲学者
たちの片鱗が見える。 <中略>ここで重要なのは、アウグスティヌスは、自らキリスト教(唯一神信仰)の教義の問題点、すなわち、「ツッコミどころ」を自分で見つけることができる冷静さと、その言い訳を考えつくだけの知識を持ち合わせていたということだ。これ
は、彼の人生経験のたまものであろう。
また、彼は若い頃から、弁論術を学んでおり、誰と論争しても勝てるだけの素養も
あった。<中略>
そんな彼が一貫して述べていたことは、「人間は、生まれながら罪深い業(原罪)
を背負った存在であり、神の恩寵なくしては救われない」というものであったり、「人間は自力では救われない。 神の力が必要である」という考え方だ。
<中略>アウグスティヌスは、他の司祭たちのように、禁欲を成し遂げた偉大な人間としてではなく、ついうっかり欲望に負けて罪を犯してしまう同じ弱い人間として、みんなと同じ目線で語りかけたのである。 そんな彼の言葉は、潔癖で完璧な振る舞いで禁欲的努力を押しつけてくる他の司祭たちの言葉なんかより、よほどみんなの胸にガツンと響いたに違いない。
「人間は、欲望を自制できない、か弱い存在です。そんな罪深い人間は、ただ神の前
にひれ伏すしかありません。ああ、私たちは、自ら罪深い存在であることを認め、神
にすべてを『告白』して許しを請い、神の慈悲によって救われるよう、祈りましょう」

アウグスティヌスは、こうした懺悔的教義を打ち出し、「努力による自力救済」を
否定したうえで、キリスト教をひとつにまとめあげるのに成功する。その結果、キリ
スト教は、誰もが実践可能な「大衆 (みんな) の宗教」となり、世界宗教として発展
を逃げていくのであった。

史上最強の哲学入門 飲茶 著

また、アウグスティヌスは神の意志が存在する場所は教会であると主張しました。つまりこれは、 教会の権力を世俗権力の上位に置く考え方です。

これをカトリック側は採用したわけです。

また、実はキリスト教は初期の段階では輪廻転生が存在していました。

 

 

また553年にコンスタンティノープルで開かれた宗教会議で、輪廻転生が否定され、その部分が聖書から削除されました。イエスは「神のみが人を裁ける」と説いたのに対し、人の運命は教会の支配下にあるという教えに変質させる目論見があったと言われています。この会議を契機に、ローマ教会は圧倒的な権力を持つようになり、社会に対する支配力を強めました。同時に、キリスト教は初期の純粋性を失い、腐敗していったのです。

輪廻転生を否定したことで死後の世界は天国と地獄、煉獄が創られました。

何のためか。免罪符が売れます。地獄をチラつかせて十分の一税を信者から搾り取れます。輪廻転生を否定しなければお金儲けできません。

聖職者たち食べていけません。さぁ、どうしましょ。改竄しちゃえでしょうか。

引用します。

それまでローマ教会は次のように教えていました。 死後に天国に行くか地獄に行くか、 それは最後の審判のときに決まる。だから生きているうちに善行を積み重ねて、最後の審判にパスすることが肝要である、と。しかし、一人の人間が善行を積んだかどうか、誰が判断してくれるのか。結局のところは、ローマ教会の最高権威者であるローマ教皇です。そうすると教会に土地を寄進したり、お布施をたくさん喜捨したりすることが、一番わかりやすい善行となるので、信者たちはそれを信じて教会で礼拝し、司祭たちに従ってきました。
哲学と宗教全史 出口治明 著

レオナルド・ダ・ヴィンチは輪廻転生のあった初期キリスト教エッセネ派を信仰していたと言われています。ルネサンスは、ギリシャ、ローマの古典への回帰と輪廻転生、多神教の復活を目指していたのではないかと思われます。多くの人文学者たちがローマ教会によって暗殺されています。

 

正教会とカトリックについてまとめます。

 

正教会…三位一体+輪廻転生の否定
カトリック…原罪+三位一体+輪廻転生の否定

 

カトリックの本音が金金金!なのが透けて見えます。聖職者によって信仰汚されましたね。一番金に執着しているのが教会で聖職者という寄生虫です。カトリックの聖職者に限って肥えている人多いし。

また、カトリックと正教で異なる点ではカトリック教国は君主の近親婚が目立ちますが、正教会例えば東ローマ帝国やロシア帝国の君主たちはそれが少ない傾向で、むしろ元イスラム教徒とかモンゴル人とか民族の枠を超えていたりと寛容な傾向が見られました。身分の低い女性を妃に迎えた例もあります。

抽象度が両者で異なるのも当然だなと思いました。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

脳内麻薬が消失した2023年4月7日よりオンラインサービスを開始しました。

速読サブリミナルが大好評となっています!波動体感準備講座、基礎講座、上級講座開講しました!

人生を変えるための第一歩を踏み出しましょう!