続きを書きます。

 

前回の記事はこちらです。

 

 

シャルル7世が目指したことは百年戦争後の荒廃したフランス国内の中央集権化政策だった。ルイ11世もまた中央集権化政策を推し進め、封建制から絶対王政への転換を推し進めたかった。

 

しかし、父親の政策を踏襲するやり方は絶対に受け入れたくはなかった。自らの考えで自らの政策で中央集権化を目指したかったのだ。

 

戦争は嫌いだった。百年戦争の爪痕は大きなものだった。戦争は多くの命が失われるし、金を食いつぶし国を疲弊させてしまう。百害あって一利なし。だったら、謀略を駆使すれば自らの手を汚さずに利益を得ることができるではないかそう考えたのだ。戦争は他国に任せておき、双方がくたばったところを奪えばよいではないか。

そんな目論見があった。

 

『君主論』を書いたフィレンツェの外交官ニッコロ・マキャヴェッリはルイ11世の政策に厳しく評価を下しています。この『君主論』はなるべくキリスト教色を省いた上での記述ですが、内心ローマ教皇に目を付けられることを恐れていたのではないか注意を逸らすためにあえて教皇の私生児チェーザレ・ボルジアを称賛したのではないかと思えるためです。31歳と短命のチェーザレの政策を評価し称賛するのは少々短絡的ではないかと思うのが個人的な意見です。

それでもその本はローマ教皇によって悪魔の書とされ一時禁書扱いとなりました。

中世ヨーロッパでは、本の出版も命がけです。

『今度こそ読み通せる名著マキャベリの「君主論」』より引用します。

 

己の力の上に立っていない者の名声など、まるで当てにならない

ルイ11世の父だったフランス王シャルル7世は、百年戦争において、その力量と幸運によってイギリスからフランスを解放しました。その際に、彼は自身の軍によって国を守る必要性を痛感し、兵と歩兵からなるフランスの常備軍を創設したのです。ところが息子のルイ11世は、歩兵を廃止し、スイス人を傭兵として雇い入れます。ルイ11世の政策はのちの王にも受け継がれますが、いま見ればあの王国に危険を招いたことは明らかでしょう。これによってスイス人の強さばかりが評判となり、フランス軍の価値は地に落ちてしまったのです。彼は歩兵を消滅させるだけではなく、自国の騎兵たちもスイス人に従属させ、彼らがいないと何もできない体質にしてしまいました。
フランスはこれでスイスに対抗できないし、またスイスなしでは、ほかの国にも対抗できません。フランスの軍はこのように混成軍と化し、一部は傭兵で、一部は自国の兵士です。両者の軍を合わせれば、傭兵のみや他国の軍のみで編成されるものよりはマシですが、自身の軍とは比べものになりません。この事実からわかるのは、もしシャルル7世の創設した軍が発展するか、あるいは維持されれば、フランスはいまごろ無敵になっていたかもしれないということです。人間の浅はかな知恵は、最初に「こうしたほうがいい」と思いつくと、その発想に隠れている毒を無視し続けます。

 

この一見愚策と思われる軍事政策を何故してしまったか、それはルイ11世の政策を見れば紐解けます。要は自らの手で戦争をしたくなかったのです。自国から徴兵すれば多くのフランス人が命を落としてしまうかもしれないですよね。民衆の不満が自分に向かってしまえば三部会で承認を得ることも難しくなるでしょう。

この王は盛んに三部会を開いています。

また、戦争なんかしなくても謀略や外交一つで片づけられる。そう見込んで軍隊は必要最小限で構わないと思ったのではないでしょうか。

金で買収することも得意なので、傭兵は金に弱いことも金の力一つで傭兵の士気を向上させることもわかっているはずです。

ルイ11世の狙いは、戦争を仕掛けるではなく権謀術数によって貴族たちを血祭りにあげ、王領地を増やして歳入を増やす。国庫が潤えば、国を思い通りに支配する手段が増えると言った感じで統治したかったのです。良い国にしたいではなく思い通りに支配です。現代の戦争屋の考え方に近い政策だと思います。

ルイ11世よりももっと質が悪いのはローマ教皇です。

ルイ11世は権謀術数を駆使した王政強化を次の世代もずっと継承してほしいと思っていたのではないでしょうか。親父の方針は間違っている、でも自分は正しい。だから後世もずっとこの方針にすべきだと。

 

ランスで戴冠式が終わって、ルイ11世は何人かの瘰癧患者にロイヤル・タッチを施すと、パリに長く留まることはなかった。温暖な気候が気に入ったトゥーレーヌに向かった。

 

「どこに住むのです?」とシャルロットは尋ねた。

「君はアンボワーズ城に、私はプレシ・レ・トゥール城に」

 

と王ははっきりと答えた。

 

若い王妃はそのような計画を予想していなかったので、一瞬驚いた。

そして恐る恐る言った。

 

「えっ…では、いつ会えるのですか?」

 

ルイ11世は粗野な話し方をした。

 

「時折、自然が君を必要とするときだ(世継ぎが必要となったとき)」

 

また、彼はこうも付け加えた。

 

「国王は、国を背負っているからな。だからこそ女性の存在によって弱腰になってしまうことを許してはならないのだ。」

 

「それは娘であっても?」

 

国王は、生後5ヶ月のアンヌ・ド・フランスが眠る馬車の揺りかごを優しく見つめたが、すぐには答えなかった。

 

「後日、あの娘をプレシ・レ・トゥールに連れていくよ。私はすべての娘に偉大な王妃となる能力を身につけてほしい。でも、君の教育だけではとても心配だな…。」と彼は言った。

 

「そう……

 

シャルロットは涙をこぼし、旅の5日間、夜も休むことなく泣き続けた。

当時の歴史家は、「王妃の悲しみは肉体に深く刻み込まれ、睡眠中もあちこちで悲痛なうめき声をあげ、閉じた目からは涙が流れ続けた」と語っている。

こうして、国王は妻と娘をアンボワーズ城に残し、安堵のため息をついたのだった。

 

そんなルイ11世には実は愛人がいた。その数は10人ほどである。王の愛人たちとのスキャンダルはすぐに人々に知らされることになった。王が愛人たちとお楽しみの最中、シャルロットはアンボワーズ城でずっと悲しんでいた。

 

ここではっきりと言ってしまいますが、ルイ11世は強烈な男尊女卑主義者です。では、何故愛人がいるのか。こういう認識です。

愛人=ストレス解消、性欲処理器

王妃=世継ぎを産むための機械

王女=政略結婚のための駒

過激な言葉を用いましたが、やはりこんなふうにしか思っていないでしょう。まぁ、王女に関しては世界中のどこの国もそうだと思います。

 

ところでヴァロワ家直系に対して傍系のオルレアン家がいる。

 

 

オルレアン家にはオルレアン公シャルルという人物がいた。

オルレアン公シャルルは、ブロワ城で隠遁中に詩を作っていたが、ルイ11世の居城プレシ・レ・トゥールから最新の噂話を聞かされるのが楽しみだった。

 

 

百年戦争アジャンクールの戦いの後、捕虜になり25年の幽閉生活をしていた彼は、ブルゴーニュ公フィリップ善良公夫妻の尽力により、ロンドン塔から釈放となった。

 

 

ふとしたきっかけでオルレアン公シャルルはブルゴーニュ公国との接点ができた機会を見逃さなかった。オルレアンを解放してくれたジャンヌ・ダルクには感謝しているが、現実的に考えて百年戦争の戦局を最も大きく左右したのはブルゴーニュ公だった。

そしてブルゴーニュ公爵夫人は政治面において夫フィリップ善良公に最も影響を与えた女性であった。

 

 

ブルゴーニュでも女性が強いのは、ブルゴーニュの領土であるフランドル地方が女性領主の存在を認めていた歴史的背景があるということもポイントです。

嫁いできた女性も感化されるのかもしれません。

後の諸外国によるフランス包囲網の対立構造に”女系相続”という視点も入れますと二極化してることがわかりました。ここも重要なポイントです。

 

ブルゴーニュ公爵夫人は主に外交面で手腕を発揮する。彼女の心を動かす術をオルレアン公は心得ていた。女性はとにかく情に脆いところがある。彼女は詩に理解のある女性だった。

彼はロンドン塔での長い幽閉生活の物語を詩に書き留めた。公爵夫人は心を動かされ、親戚の救出に強い関心を抱いた。

 

ここから善良公との間で詩の交換が始まった。まさにペン一つで長年の幽閉生活に終止符を打つ出来事であった。

 

 

オルレアン公とブルゴーニュ公の間で交わされた詩の回数は 7 回にのぼる。

「私はあなたの隣人だから」という詩を送っている。オルレアン公に掛けられた身代金は12万金クラウンという巨額に設定された。王位継承順位が高かったためだ。

 

訳が微妙ですが、このような詩でした。詩というか手紙というか。

いとこよ、ありがとう、
あなたは私を大いに助けてくれた。感謝します。
そしてさらに、あなたは証明します。
私は自分の役割を全うしました。
あと必要なのはお金だけです。
私の人生を救うために
そして、すぐに手に入れたなら
身も心も幸せになるだろう。


25年の投獄の後、オルレアン公はカレーに上陸した。

ブルゴーニュ公爵夫人はグラヴリーヌで彼を待ち、すぐに夫の善良公が到着した。二人の従兄弟はお互いの腕の中に身を投げ出し、もはやオルレアン派もブルゴーニュ派も存在せず、和解が成立した。

 

 

オルレアン公の華麗な行列はサントメールへ向かった。そこでは詩人とフィリップ善良公の姪マリー・ド・クレーヴとの結婚が祝われた。

 

 

この女性の両親は西フランドルワイネンデール城に住んでいました。母親がブルゴーニュの人間であること、西フランドル生まれということで、彼女がどのような教育を受けてきたのか気になるところです。

 

結婚は1440年11月のことである。まだこの時はシャルル7世が健在でルイ11世が王太子だった。ブールジュへの旅行の後、オルレアン公と公爵夫人はブロワ城へ向けて出発した。

静けさと平和の時代がやって来た。オルレアン公が実家に戻る前に、自由で気楽で微笑ましい生活が始まった。

 

35歳差という親子以上に歳の離れた若い夫人は、小柄な金髪の美しい女性で、金のローブで身を飾り、グレイハウンドや宝石や毛皮を愛し、優しく幻想的な詩を書く人だった。

 

グレイハウンド…狩猟用の犬です。貴族は女性でも狩りを楽しむ習慣があります。

 

 

中世の絵画でグレイハウンドは描かれています。晩餐会の絵などにも描かれてます。

 

 

この夫婦はとんでもない年齢差ですが、仲が良かったみたいです。引き合わせた時に詩という共通の趣味で意気投合したか余程オルレアン公シャルルが年の差をカバーする魅力があったか、資料がないので何とも言えません。幽閉期間中に詩を書くことを拠り所としフランス語と英語の両方で詩を書き残しています。彼は英語とフランス語で 500 を超える詩を書き残し、生涯にわたって広く流通しました。幽閉期間が長かったせいか言葉もフランス語よりも英語の方が上手く話せるくらいだったそうです。この頃のイギリスは脱フランス化し英語を話すようになっていきます。

オルレアン公シャルルに対し、時の王シャルル7世にはどう映ったか…自分には嫡男がルイ11世しかいないし既に仲が険悪、王位継承権を持つ傍系であって英語を話す…難色を示しつつも自分よりも9つ年上で釈放された時の年齢が40代だったため、再婚して子も望めないだろう、そんなに長くはないだろうと考えてやむなく帰国を認めた感があります。ものすごく悩みぬいてやっと決断したというか。だから帰国後の王の対応が冷たかったのかなと。

一方ブルゴーニュ公は元親イングランドであったことや交易していたこともあって、英語に対する偏見は特にないとは思います。この辺からオルレアン家と王家のフラグが立っており、それを次の代まで持ち越した可能性もあるかもしれません。

 

この年老いたオルレアン公が驚いたことに、妻マリーは娘を出産した。

1457年のことである。まだ王太子であったルイ11世はこの夫婦の年齢があまりに離れすぎていることで、オルレアン公が父親なわけがない、どうせ奴の周りの若い男とできた子だろうと高をくくっていた。

しかし1462年ちょうどルイ11世が即位してから1年後、マリー・ド・クレーヴが男の子を産むと、王は青ざめた。オルレアン公シャルルは喜び、生まれたこの男の子をオルレアン家の後継者としたため、ルイ11世は焦った。

 

「おのれ…傍系の分際が生意気な…。今に見ていろよ!ムキームカムカ

 

そしていつかこの赤子と決着をつけなければならない時が来ることを悟ったのだ。

 

まぁ、王位継承争いに食い込んできますからね。

 

そこで彼はブロワに向かい、名付け親を申し出る。その際にオルレアン公の息子を小馬鹿にするような発言をいくつかしつつも、洗礼盤に付き添った。

しかし、その儀式の最中、王は些細な出来事に大激怒した。

後の、ルイ12世の名で君臨する日が来るとは誰も予想だにしなかったこの赤子が、フランス国王の袖を大量に濡らしてしまったのである。

 

 

洗礼の儀式中に赤子が暴れた?いや、そうではない。

王の袖を濡らしてしまったのは、赤子がおしっこをしてしまったからである。

もちろん赤子に罪はない。

 

『なっ、何て奴だ…!?滝汗

 

プレシ・レ・トゥールに戻ると直ぐに、ルイ11世は厄介な名付け子ルイを無力化する方法を探しはじめた。

「自分には息子が必要だ」と考えたのだ。

 

彼はすぐに馬に乗り、アンボワーズ城に向かったが、シャルロットは挨拶をすると直ぐにベッドに引きずり込まれ、愕然とした...。

 

「あなた!どうしました?」

「今からやるぞ。」

 

しばらくの間、王は王朝の未来のために必要なことは何でもするようになった。

そして1463年、シャルロットは王に「大きな希望」を語った。妊娠したと。ルイ11世は大喜びで、彼女を抱擁した。

 

オルレアン家に世継ぎが生まれる前にルイ11世には世継ぎはいたのかというと、全員夭折しています。この時点で娘のアンヌ・ド・フランス(ボージュー)のみです。

一応は8人子供ができたことにはなるんですけどね、近親婚のせいですね。

 

ルイ ( 1458 – 1460 )王太子 夭折

ヨアヒム ( 1459 - 1459) 夭折

ルイーズ ( 1460) 夭折

アンヌ・ド・フランス(ボージュー)( 1461 - 1522)

ジャンヌ・ド・フランス( 1464-1505) 

フランソワ ( 1466 – 1466)王太子 夭折

シャルル8世( 1470 – 1498)王太子

フランソワ ( 1472 - 1473) 夭折

 

残念なことに、1464年4月23日に生まれたのは娘だった。

しかも、猫背で、奇形で、発育不良で、内反足だった......。この娘がジャンヌ・ド・フランスである。

 

 

「こんなにも醜いとは!!ムキームカムカ

 

近親婚の近親婚なので身体に異常をきたすのは避けられません。

 

激怒した王は、シャルロットと一言も話すことなくアンボワーズ城を去り、プレシ・レ・トゥール城に戻った。

 

その時、彼はすさまじく極悪非道な考えを思いついてしまった。

 

続きます。

 

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