続きを書きます。

 

前回の記事はこちらです。

 

 

世界史というのは勝者が作った歴史で、私たちが習ってきた歴史というのはキリスト教のバイアスがかかっています。

それ故にフリードリヒ2世のような人物は埋もれてきました。十字軍遠征も重要なのは第6回です。動画を探しましたが、中々フリードリヒ2世の動画がないですね。

これが一番わかりやすいかなと思います。前回の復習です。

 

 

フリードリヒ2世の格好が時代にあってないですね。モーツァルトみたいな髪型してないんで。おそらく描いた人がプロイセンのフリードリヒ大王と間違えたのではないかと思います。世界史マニアの人も間違えちゃっているくらいで結構ごちゃごちゃになっている人多いみたいです。

 

イタリアに戻ったフリードリヒ2世は、1231年、「皇帝の書」(メルフィ憲章、シチリア法典)を公布します。その内容は、都市・貴族・聖職者の権利の制限、司法・行政の中央集権制の確立、税制・金貨の統一などとなっており、平たくいえば、ローマ法大全を甦らせたことになります。 すでにナポリ大学からは官僚が育ってきていますので、今度は法律を整備しよう、そのうえで近代的な中央集権国家をつくろうとしたのです。多分最終的には立憲君主制になる流れだったかもしれませんね。


ヨーロッパでは、イングランドのノルマン朝が最初の中央集権国家と見なされます。 イングランドもシチリアもノルマン人に征服された国。ノルマン人つまりヴァイキングは船で移動するので、リーダーの言うことを聞かないと目的地にも行けません。ただし、無能なリーダーであれば船は沈みますから、ヴァイキングには(リーダーの首をすげ替える) 議会の伝統もあるのです。 

 

シチリア王国もノルマンディー公国と同じくヴァイキングがつくった国なので、官僚制・中央集権制の伝統があります。そこで育ったフリードリヒ2世が、南イタリアに「皇帝の書」によって中央集権国家をつくろうとしたのには、こうした背景がありました。


やがて、フリードリヒ2世の帝国に不穏な動きが出てきます。ドイツを預かる息子のハインリヒ7世が、不満を募らせていたのです。不幸なことにハインリヒ7世は望んだ結婚ができず政略結婚した王妃との関係が冷え切っており、女性不信・人間不信と闇を抱えて育ってしまいます。

 

 

成人しても、抑圧され自分の意見を通すこともできず、ただのお飾りの王で居座っているだけだからとにかく面白くなかった…と。


そこにつけ込んだのがローマ教皇グレゴリウス9世でした。表向き和解したもののローマ教皇はフリードリヒ2世の統治に納得がいきません。だからここでその権力削いでしまおうと暗躍し始めます。

グレゴリウス9世はドイツで妖術をしていたようですが、おそらくこの頃でしょう。追いつめられるとこういう悪事に手を染めるんですね。

 

 

グレゴリウス9世の執念がとにかくヤバすぎる…。

結局教皇というのは自身が軍を持てないし、剣をもって戦えないのです。だから各国の君主をそそのかして意のままに操る戦法をとるのです。

戦闘のプロじゃないから君主たちと正面からぶつかれば本当は一発でやられます。

だから宗教的権威を利用し捏造することで守りを固めたのです。中世のジョージ・ソロスと思えばわかりやすいかと思います。

 

 

グレゴリウス9世以降、教皇=戦争屋という色がより明確に反映されてきました。

これが単に君主であれば、史書を捏造したり逸話を作ってカリスマ性を高める止まりになります。これは中国にしろ日本にしろ世界各国共通で行われてきたことであり、世俗的な視点にとどまります。

マズいのは宗教。自分の利益のために宗教を弄ってインチキ自己肯定することなのです。ましてや一神教であれば最悪でしょう。神の冒涜は許さんが切り札になってしまいます。

 

ハインリヒ7世は教皇にそそのかされ、1234年、ミラノなどイタリア諸都市が結成したロンバルディア同盟と組んで、父親に向かって反乱を起こしてしまいます。

 


フリードリヒ2世はドイツに向かい反乱はあっという間に収束しますが、ハインリヒ7世は捕らえられます。 反逆罪となれば、いくら我が子であっても救いようがない。既に弟のコンラート4世が生まれているし、私生児もいる。 フリードリヒ2世は息子の目を潰し、牢に入れます。絶望したハインリヒ7世は数年閉じ込められた挙句に、移送される途中、谷底に身を投げて死んでしまいます。

 

 

フリードリヒ2世は息子の死をきっかけに、子育ての至らなさを痛感したようです。これを教訓に、自分の全ての子、嫡子、私生児、男女関係なく全て責任をもって面倒をみたといいます。遠方の子供には手紙で対応し、結婚相手まで斡旋しました。当時は印刷技術も郵便制度もありません。そんな中でここまでやれるのはすごいことなのです。


そしてここでも皇帝に歯向かってきたロンバルディア同盟。

 

出典:中世都市と都市同盟:世界の歴史まっぷより

 

商業は中央集権とは相性が悪いのです。 イタリアの都市国家にとっては、バルバロッサやフリードリヒ2世のような強大な皇帝がいないほうが商売がしやすいし、自治権も制限されなくてすむんですね。自由都市にはお金も落ちるので、武器も買える、傭兵も雇えるということで、いくらでも反抗できるわけです。

 


1235年、フリードリヒ2世はイングランド王女イザベラと三度目の結婚をします。さらにマインツの集会で「ラント平和令」を発しました。私的な争いは裁判で決着をつけなければいけないと定め、自ら武力で解決する「フェーデ」(自力救済)を禁じたものですが、 ここで重要なのは、ドイツ語で書かれたことにあります。それまでの法律など公文書は、すべてラテン語で書かれていました。

 

 

また、フリードリヒ2世の宮廷では、会話はすべてイタリア語で話されました。 フリードリヒ2世は、ダンテが『神曲』三部作をラテン語でなくイタリアのトスカーナ方言で著したその200年も前に、イタリア語を常用していました。まさに、イタリア・ルネサンスを準備した皇帝です。ラテン語は最もキリスト教色が強いです。現在ラテン語はバチカン市国でしか使われていません。

フリードリヒ2世に権力に衰えが出はじめたのは、参謀ヘルマンが亡くなったことで大事な交渉役を失ったことです

ローマ教会はとにかく無茶苦茶です。キリスト教の大会議、公会議を権力濫用で開き、ただ一人の皇帝に対する個人的な恨みが動機で「反逆者を抹殺せよ!」と各国君主に要請を出しドン引きされるくらいだったのです。

十字軍の矛先を一人の神聖ローマ皇帝に向けよという意味なんですよ。

ただこの時点の他国の君主がしょぼすぎて…イングランドのヘンリー3世はフリードリヒ2世に心酔しているし、ルイ9世も不可侵条約の件があり、まだ動くことはありませんでした。

 

この時、東の方ではモンゴル帝国が侵攻してきます。ここで東の動きも少し触れておきます。モンゴル軍は、1241年、ポーランドに侵入し、ワールシュタットの戦いでポーランド・ドイツ連合軍を破り、ついでハンガリーの首都ブダペストに向かい、バトゥの本隊と合流して襲撃しました。

 

 

ハンガリー王国の戦闘力はヨーロッパで最強といわれていましたが、1241年4月、ムヒの戦いで惨敗し、首都ブダペストは破壊されました。

ハンガリー王ベーラ4世は、ローマ教皇グレゴリウス9世に救援を要請するも、フリードリヒ2世と激しく争っていたので、支援を断られたそうです。

ただ、モンゴル帝国のオゴタイ・ハンが死去したのでモンゴル軍は撤退しハンガリーは征服されずに済みました。ベーラ4世が特にすごいとかではなく、これがなかったら確実にモンゴル帝国に併合されていたので、九死に一生を得たハンガリーです。

 

フリードリヒ2世は相変わらず教皇の言うことを聞かず、破門され続けますが、グレゴリウス9世が死んだ後の教皇選挙のとき、多くの枢機卿の乗る船が襲撃され、フリードリヒ2世に拿捕されるなどして、一年半ぐらいローマ教皇位が空位になっていた時期があります。

フリードリヒ2世は、あまりにも愚かすぎるローマ教皇たちと徹底抗戦してきました。本当は歩み寄りたかったけれど、教皇たちがインチキ自己肯定のために信仰を拡大解釈しては交渉を拒否し、破門を乱発するんです。教皇の愚かさが前面に出てます。ここまでキリスト教に喧嘩を売り激しく争った人物はいません。

 

神聖ローマ帝国の記事は途中でカバー画像を変更しましたが、フリードリヒ2世側と教皇たちの対立構図となっております。

金髪の人物はフリードリヒ2世の私生児、シチリア王マンフレディ、皇帝フリードリヒ2世に対立した教皇たち(ホノリウス3世、グレゴリウス9世、インノケンティウス4世、ウルバヌス4世)です。教皇も代替わりしていますが、反皇帝派の教皇ばかりでその度に激しく争いました。

 


元ネタ:マンフレディの戴冠式。

 

 

フリードリヒ2世の私生児は母親が皆金髪美女だったらしく、私生児も美形ぞろいだったそうです。

 

フリードリヒ2世がこのままローマに進軍していたら、傀儡の教皇を擁立し最終的にはローマ教会を潰す流れを作ることも可能だったのではないかとも思います。

ただ、この時点ではフリードリヒ2世は、宗教というのを相対化して見ていました。キリスト教国の君主の中で抽象度が高い君主であることは間違いなく、あと20年長く生きていたとしたら、その抽象度の高さと頭脳で一神教の矛盾に気づいた可能性が高いのです。実はグレゴリウス9世以降、ローマ教皇は悪神が入っているんです。ローマ教皇庁を焼き払うくらい徹底的に潰すべきでした。

 

また、統治の悩みの種である税制についてはローマ帝国時代を手本、特にディオクレティアヌス帝の中央集権体制に近い形を目指していたようにも見受けられます。徴税請負人を入れない中央政府が直接徴税する仕組みです。

ただし、この仕組みには巨大な官僚組織が必要ですが、ナポリ大学で官僚育ててます。税に関して厄介な教会税がついてまわることも気づいていたため(古代ローマ帝国との決定的な制度の違いは教会の十分の一税があることだと考えていたようです)本当にあと少しあと少しで脱宗教の国に到達できたかもしれないのです。

 

神聖ローマ皇帝一の長寿、ハプスブルク家のフリードリヒ3世と寿命を交換したいくらいですね。フリードリヒ2世は56歳、フリードリヒ3世は78歳。ここまで生きてくれたらキリスト教の原点回帰→キリスト教は不要だと気づく→全盛期ローマ帝国に学ぶ→ストア派哲学の発見でしょうね。

東洋では老荘+法の統治、西洋の場合は脱キリスト教からストア派哲学に転換が望ましい流れです。ストア派哲学+法の統治です。

有能だっただけにその死が惜しまれますね。

 

 

続きます。

 

脳内麻薬が消失した2023年4月7日よりオンラインサービスを開始しました。
速読サブリミナルが大好評となっています!人生を変えるための第一歩を踏み出しましょう!