続きを書きます。

 

前回の記事はこちらです。

 

 

ハインリヒ6世の結婚を機にその領土は北と南でローマ教皇領をはさむ状態となりました。さて、1194年、コスタンツァとハインリヒ6世との間にフリードリヒ2世が生まれます。

 

 

この子供は父親からローマ皇帝=ドイツ王位を、母親からはシチリア王国を受け継ぐことになるわけです。 南イタリアの王国はとても裕福な国でした。
フリードリヒ2世は生まれながらにして、絶大な権力と財力に恵まれていたのです。

ところで、まずコスタンツァの出産なんですけど、その光景は異様なものです。 中部イタリアのイェージという小さな町の広場にしつらえた天幕の中、イェージの貴婦人たちが見守る中でコスタンツァはフリードリヒ2世を出産しています。

 

 

この天幕での出産シーンは当時の年代記にも描かれているほどです。何故そんなことをしたかと言いますと、コスタンツァは40歳を超えており、しかも初産だったため、こっそり出産すると「本当の子ではないのでは?どこからか赤子を貰ってきたのでは?」と疑われる怖れがあったためでした。国という大きな将来を背負った出産は、そこまでの覚悟が必要でした。


ところが、絶頂期にあった父ハインリヒ6世が、 コンスタンティノープルを攻め落とそうというときに、メッシーナで病に倒れ急死してしまいます。 フリードリヒ2世はまだ3歳のため、さすがに皇帝位を継ぐことができません。

 

喜んだのがハインリヒ6世の弟のフィリップでした。 兄が長生きしたり、嫡子のフリードリヒ2世が成人したりしてしまえば、自分は一生、日の目を浴びることもできません。 ただし、シチリアは本来、コスタンツァのものだったので、シチリア王位はフリードリヒ2世に継承されることになります。 夫の遺言にしたがって、コスタンツァが摂政となりましたが、風当たりは強く心労の種が尽きることはありません。 シチリアの貴族やフィリップがフリードリヒ2世を傀儡にしようと画策していたためです。

 

後ろ盾のないコスタンツァは、フリードリヒ2世の後見人となって育ててほしいとローマ教皇を頼ります。このときの教皇はインノケンティウス3世です。

 

 

「教皇は太陽、皇帝は月」との言葉を残した、世界史の教科書でも有名なローマ教会の全盛期を築いた教皇ですね。

イングランド王ジョン、フランス王フィリップ2世もこの人には屈服します…。

 

インノケンティウス3世は自らをペテロのみならず皇帝コンスタンティヌスの後継者と思っていて、 その支配理念は、カール大帝が教皇による戴冠と油塗り塗りによってのみ皇帝となったが故に、教皇は自らが与えたものを取り戻すことができるというもの。つまり、神のお墨付きを与えたのは教皇なんだから教皇の方が皇帝よりも格上ですよと正当化させてしまったんですね。
絶頂期の教皇が主宰した1215年の第4回ラテラノ公会議は彼に教皇・立法者・裁定者としての世界的名声を与え、インノケンティウスはこの時代の最も卓越した政治家として、教会を聖俗権力の頂点に導き、教会的世界国家の夢をほぼ実現させたのです。

 

 

そしてこの人物、とにかく政治に口を出すのが大好きなんです。「シチリア王国はもともと教皇のものだと認めなさい」と無茶苦茶な条件を突き付け、更には「成年になるまでの後見料を支払いなさい」という図々しさです。後見料は後払いです。それでもコスタンツァは受け入れました。もうどうしようもなかったから。

教皇は後見役を引き受け、フリードリヒ2世をシチリア王として認めます。ひと安心したのかコスタンツァは病死してしまいます。1098年、フリードリヒ2世は4歳で孤児となったのです。
 

後見役となったインノケンティウス3世は、フリードリヒ2世に家庭教師をつけました。フリードリヒ2世をローマに呼び寄せたわけではなく、家庭教師団をシチリアに派遣しただけであり、直々に干渉するというわけではなかったようです。

フリードリヒ2世についた教師団は、「この子どもはラテン語もあっという間に覚えてしまう。 末恐ろしい麒麟児だ」という報告を送ったりしています。

 

後見人であるインノケンティウス3世は、側近に次のように語ったという。

「彼の場合は、能力の歩みは年齢の歩みよりも早かったようだね。少年期から一気に高度の認識力が求められる年頃に突入したようだから」
 

フリードリヒ2世は、教皇の十分な後ろ盾も得られず、自分を利用しようとする者たちに囲まれて成長します。ときには貴族間の派閥抗争の煽りを受けて人質生活を送ったりすることもあり、とてもシチリア王とは考えられない大変な苦労を重ねます。しかし、荒波にもまれた彼は、とても賢い君主に育っていくのです。

 


当時のシチリアの中心都市パレルモは、現代のニューヨークのような国際都市でした。東口ーマを追い払ったアラブ人に支配され、そのあとにノルマンディー公国からノルマン人がやって来たという経緯もあって、アラビア語、イタリア語、フランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語など、さまざまな言語が飛び交い、多様性にあふれていました。 そんな環境で幼少期を過ごしたことが、フリードリヒ2世に大きな影響を与えることになったのです。

続きます。

 

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