掃除は自己肯定感とは関係ありませんし、強迫観念でするものではありません。

しかし、断捨離や片付けというインチキメソッドが大々的に広まった結果、掃除は自己肯定感が上がるものだと勘違いする人が出てきました。

 

何故こんなにも宗教のように断捨離・片付けが受け入れられたのか、その理由に気づきました。

 

本日、自分のやることにキリがついたので、気分転換に家中の窓を拭いていたのです。

 

すると窓がピカピカになりました。とても気持ちがスッキリして良い気分になりました。すると母が、「家が綺麗になると気持ちいいでしょ。」と言ったのです。

母とは昨日、掃除のことで喧嘩をしましたが、甥っ子たちが強行で帰省すると言い出したのでそれが強迫観念になっていたのです。しかし、昨夜兄からLINEが来て義理の姉、甥っ子とも陽性で家内感染となったため、中止となりました。そのおかげか、重荷が取れて母の機嫌が良くなったのです。普通に会話ができるようになりました。

 

母の発言を聞いて、ん?待てよ?と思いました。

母は断捨離がヤバいものだと思っていないし、掃除でインチキ自己肯定する人なので、母の発言を真に受けるのに待ったがかかったのです。

 

そこで私は、掃除が終わった後のスッキリ感や気持ち良さとはどういうものなのか考えてみたのです。するとその正体がわかりました。

 

それは「達成感」です。

 

 

達成感を感じるなとは言いません。

しかし、考えてみてほしいのは、その達成感というものが持続するものなのかということです。

 

翌日になってもその達成感は続きますか?続かないですよね?

それはすぐに消えてなくなり、存在感すらも無くなってしまいます。持続しない感情に振り回されることを一喜一憂すると言います。

持続しない一時の感情に飛びつくのはインチキ自己肯定の性質です。

多くの人たちが達成感という一時の感情に病みつきになり、強迫観念で掃除に取り組んでしまいます。それでも掃除が終わった後の達成感は気持ちがいい。そういうことを繰り返してきた結果、掃除は良いものだ、綺麗にするのは良いことだという二元論の属性も加わり、掃除=自己肯定感を上げるものだということが自然に受け入れられてしまったのではないでしょうか。

 

やはり、一つでも地雷を踏んでしまうと連動してインチキ自己肯定になってしまいますね。本当に油断ができませんね。

達成感は感じるなとは言いませんが、達成感を感じている自分を受け入れてそれで終わりにします。

 

「私は掃除をして綺麗になったことで清々しい気分になったのだな。」と受け入れる。これで自己受容は完了です。この作業を忘れてしまうと、インチキ自己肯定になってしまいます。どのような時も常に受け入れる癖をつけてください。それが自己受容です。