再び儒教について書いていきます。



 

唐王朝の李氏一族は、易姓革命を使うために老子の末裔だと称しました。
そのつじつま合わせのために道先仏後の方針を取り、儒教・仏教・道教の格を入れ替え道教を第一としました。

 

 

しかし、既に隋王朝の仏教優遇政策が浸透しており貴族・知識階級に受容されていたこともあって、朝廷内でしばしば道教と激しい論争が繰り広げられました。
太宗は、高祖李淵が老子と同じ李氏であり、老子の子孫である称したため、道教を国教としましたが、仏教を排斥するようなことはありませんでした。
仏教保護というか、道教を三教のトップにさせたくて仏教側から不満を爆発させないために懐柔策を取ったように見受けられます。
建国期の戦乱で敵味方の戦没者のために交戦地に寺院を建立したり、また、父系母系両方の先祖供養のために仏像を納めたりしています。母穆太后ために長安にの自ら仏像に眼睛を書き入れる程でした。
結局「崇仏」「崇道」の政策をとり、仏教も衰えることはありませんでした。



ただ、太宗の治世も晩年になってくると政治に陰りが見えてくるようになってきました。
というのは、まず太宗の正妻である長孫皇后が636年に亡くなってしまったのと、643年に
魏徴が亡くなってしまったからです

太宗は、魏徴の死を三鏡の話の中で次のように悼みました。

 

「銅を鏡にすれば、衣服や身なりを整えることができる。 歴史を鏡とすれば、人の世の興や衰亡を知ることができる。人を鏡とすれば、自分の行いを正すことができる。厳しいことをいってくれる魏徴は、鏡のような存在であった。 魏徴を失い、私は一面の鏡を失ってしまった」

 

自分のまわりにいるのは茶坊主ばかりで、誰も自分を諌めてくれない。自分の本当の姿を教えてくれる人はもういなくなったと、太宗は魏徴の死を嘆き悲しんだのです。

名臣を失ってしまった太宗は後継者に恵まれませんでした。太宗の長男で皇太子の李承乾は奇行(男色)に走って破滅してしまいました。
太宗は、結局、性格がおとなしい李治を皇太子としました。後の高宗です。
そして対外政策は644年に、10万余の大軍で高句麗に遠征しますが、激戦の末に敗北してしまいます。
 

また、道教を三教のトップにさせていた影響もあってか、不老不死に対する憧れもあったようです。しばしば、煉丹術による不老不死の霊薬(丹薬)の服用にのめり込み長生きしようと試みたようですが、丹の原料は辰砂や水銀やヒ素や鉛を含んだ毒物の塊で、長生きさせるどころかむしろ精神を害したり寿命を縮める結果となりました。

 

辰砂

 

水銀


道教がヤバいと感じるのは、煉丹術による水銀中毒の害です。
こんな物を飲んで不老不死とか無茶苦茶です。老荘思想に神仙思想や易や風水や得体のしれない物を無理矢理融合させてしまったことによる弊害ですね。
南北朝時代にも丹薬を愛用して水銀中毒になった皇帝たちは多くいて、寿命が短かったり暴君的に書かれる君主が多かったのは丹薬による害だと考えられています。

秦の始皇帝の墓から水銀が検出されたという話もあります。

皆、不老不死の虜になったようです。
唐では少なくとも5人の皇帝が丹薬を愛用し、その結果みな中毒死してしまったのです。道教ではなく老荘思想ならよかっただのですが、この時代には既に道教が完成されていたため変なものまで導入することになってしまったようです。

一方、儒教では科挙制度を整備し「五経正義」という儒教の国定教科書が制定されますが、科挙に合格できても末端の官僚にしかなれない程度に機能していませんでした。
国家的イデオロギーの地位は維持していますが、儒教にとっては不本意な状況が続きます。
朝廷と皇帝の意向により、道教と仏教が強くなり、国家権力を拠り所とする儒教は道教と仏教の勢力に耐えながら生き延びることになります。