北魏の時代、孝文帝の治世の下で、洛陽遷都が行われ漢化政策も進んでいきました。
しかし、499年に33歳の若さで亡くなってしまいます。孝文帝の死と急激な漢化政策により、北魏の国の衰退への遠因にもなりました。
その頃のモンゴル高原では、柔然という国家ができました。
5世紀の初めに中央ユーラシアからモンゴル高原に至る大帝国を築きました。
中国王朝と異民族の関係性をわかりやすいように図で表しました。

本当は清王朝まで異民族との関係性は続くのですが、ここでは唐王朝までとさせていただきます。


北魏は、北方民族の侵入を防ぐために辺境地帯に六鎮という六つの鎮主府(沃野鎮・懐朔鎮・武川鎮・撫冥鎮・柔玄鎮・懐荒鎮)を置き、多くの拓跋部に帰順した匈奴や鮮卑の有力豪族に特権を与えて北方の警備をさせました。

 


しかし、洛陽遷都後、北魏の漢化政策が深まると時代から取り残されて冷遇を受け、六鎮はほとんど流刑地同然になりました。鎮内には不満が高まり523年に六鎮の乱が起きます。まず沃野鎮でそれは起き、他の鎮にも伝染していきました。

それに対して中央の北魏は内部対立もあって対応できず、衰亡に向かいます。実権は、六鎮の乱を鎮圧した懐朔鎮出身の高歓や武川鎮出身の宇文泰といった軍人の手に移り、534~535年に2人の皇帝を擁立したため北魏は東魏と西魏とに分裂します。




そして東魏は550年に禅譲を受けて北斉に、西魏は556年に禅譲を受けて北周に王朝が変わりました。

 

 

北斉は高氏の王朝、北周は宇文氏の王朝となります。高歓と宇文泰が、北斉・北周の礎を築き、彼らの子孫が皇帝となったのです。



一方、南朝では漢民族の4王朝(宋・斉・梁・陳)が短命で入れ替わり続けました。貴族たちが贅沢三昧で堕落しており、政治もまともに機能していませんでした。しかし、江南の未開の土地を開発して水田耕作を普及させ、経済が発展していきます。経済が発展すれば文化が栄えます。そうして栄えた文化は三国志の時代の呉・晋と南朝4国を加えて六朝文化と呼ばれ栄えました。

  

南北朝時代を終わらせ、中国を統一するのは隋なんですけど、実は北周→隋→唐は深い関係があります。

北周は宇文氏の王朝だったのですが、宇文一族というのはもともと、異民族の匈奴にゆかりのある部族でした。
前漢の時に匈奴が分裂した後、散り散りになって鮮卑の拓跋部と姻戚関係になり、鮮卑に帰順したということです。そこから六鎮の武川鎮に派遣され宇文一族は代々国境を守る役割を果たしていました。

宇文泰は、実権を握った後、武川鎮出身の者たちを集めて軍団を作り、西魏の支配集団を武川鎮出身の者で固めました。西魏の支配地は陝西省と甘粛省であったので、このことから武川鎮軍閥のことを関隴集団(関隴貴族集団)とも呼ばれます。ちなみに関は関中(陝西省)のことで、隴は隴西(甘粛省南東部)のことをいいます。

北周・隋・唐の王朝はいずれも武川鎮出身の一族たちの王朝です。

先にネタバレしておきますが、隋も唐も漢民族の王朝ではなく、異民族である鮮卑の一族の王朝になります。漢民族国家と誤解している人も多いですが、事実です。

北周から唐まで上手く引き継がれたのは、ある一族の女性たちの活躍によるものでした。長くなったので、次に続きます。