三国志の時代に入って、中国の人口は一説では1000万人を切ったとされています。
乱世だったということもありますが、寒冷化による食糧不足と病気によって子どもが産まれずどんどん人が死んでいきました。黄巾の乱を機に後漢は弱体化し、最後の皇帝献帝の時代には、曹操の傀儡となりました。
曹操の死後、献帝は帝位を曹操の子曹丕に禅譲します。これにより後漢王朝は滅亡しました。

中国歴代王朝は王朝が変わる時は例外なく、「何故変わる必要があるのか」「何故この人物が支配者になるのか」という正当性が必要でした。
そのために用いられたのが孟子の「易姓革命」の思想でした。

※易姓革命
徳のない天子を天が見限った時に、他の徳のある人物に天命が下り、取って代わること。
「悪い政府に対しては、人民が蜂起して政府を倒してもよい」という人民主権の考え方でもある。
孟子の思想は、フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)の社会契約説と似ています。


孟子は、易姓革命による君主交代の形式を2つ挙げています。禅譲と放伐です。

禅譲…君主自らが非を認めて、血縁者以外の者に位を譲ること
放伐…人民がクーデターを起こし、暗君を追い払うこと

実際は、放伐よりも君主を脅して禅譲させるケースが主流でした。
この禅譲という形式が始めてなされたのが曹丕の時でした。曹丕は魏を建国しましたが、それに対抗して漢室の末裔を自称する劉備が蜀を建国し、江南の地では孫権が呉を建国しました。この三国が鼎立し覇権を争った時代が三国時代でした。

 


 

三国時代では、まず蜀が滅び、魏の権臣司馬氏が魏帝を退位させて晋を建国し呉を滅ぼして中国を統一します。ところが、晋王朝は王族間で内乱が勃発し、匈奴によって倒されてしまいます。
遊牧民たちは、寒冷化で南下の機会をずっとうかがっていました。晋の滅亡を機に遊牧民の侵入が激しくなります。晋の人々は南へ逃げていき、華北の地は異民族の支配する五胡十六国時代に入っていきます。
 

中国史上はじめて中国の一部が異民族に支配され、漢民族が南に逃れ争乱が度々展開されました。
それまで華開いていた漢文化が少なからず破壊されましたが、それでも儒教は依然と国教の地位を占めていました。この時代は異民族による王朝がすぐに変わっていく乱世で複雑な時代ではあります。

 

 

しかし、あんなに強力に敷かれた儒教の男尊女卑洗脳のなかで何故唐の時代に武則天という女帝が誕生したのか、それを知る大事な時代です。
五胡十六国時代にはついに仏教が登場してきます。

この異民族が支配する時代は前漢に成立した儒教のターニングポイントでもあったのです。