ふざけたタイトルだなと思ったかもしれませんが、至って真面目な話です。

なんでと二元論とトイレ?関係ないのでは?大いに関係あります。

 

 

実は私、海外旅行に行った経験がありません。

何故かというと、食べ物が口に合わないことと、トイレが汚い国・トイレ設備がしっかりしていない国へは行きたくないからです。日本は世界一のトイレ先進国、だからやっぱり日本が一番いいなと思うわけです。

今思うと、それでよかったと思っています。いずれにせよコロナ禍で海外へは行けませんが、行きたかった時は、ヨーロッパの大聖堂とか観たいと思っていたこともあったのです。でももう懲りた。キリスト教の息のかかった物はもう関わりたくない。

 

話を戻します。

欧米のトイレ開発が遅れ、日本がトイレ大国になれたその理由は排泄に関する認識の違いにありました。

 

それはキリスト教による心身二元論が影響していました。はい、ここでも登場します二元論。

その心身二元論によれば、存在の本質である心とその本質を司る身体はそれぞれ独立した実体だとされてきました。そして、そこには上下関係が存在し、身体は心より劣っているという観点が一般的でした。身体に関することは汚れており、表に出すべきではないという考えだったのです。

 

それに対し、日本の独自宗教に見られる神道や仏教には身体の優劣の概念などありません。神道と仏教は心身一元論、つまり心と身体が同一でした。双方が存在の本質として成立するあり方でした。また、神道のもとになっている日本書紀にも排泄は酷評されるどころか、排泄物から神が生まれてくるとされています。

密教においてもトイレの神様こと烏枢沙摩明王様も存在していますしね。

 

キリスト教は一神教のため他の宗教の存在は認めません。布教活動するのもキリスト教ですね。多神教からキリスト教へ改宗させる過程で、彼らに多神教への嫌悪感を抱かせるために、排泄は非キリスト教的な習慣だと結び付けられました。

その後、キリスト教では、上半身は清潔さ、天国と神様を連想させるもの、下半身は汚物、地獄と悪魔を連想させるものとなったのです。一つの身体においても善悪の概念がつけられるようになったというわけです。

 

また日本は、鎌倉時代から人間の排泄物を肥料として再利用しており、貴族だけでなく一般の家にもトイレが設置されるようになりました。江戸時代にはなんと糞尿が価値の高い商品となり、売買もされていたようです。貧乏な農家は糞尿が買えなかったので盗難事件が起こることも少なくなかったようです。すごい話ですね…。

そして、糞尿を再利用することで日本の町は比較的綺麗だったようです。近世に来日した欧米人たちが口をそろえて「日本のトイレは非常に清潔で掃除もされていて臭くない」とコメントしたそうです。

 

当時のヨーロッパでは、汚物穴に用を足してそのまま放置が一般的だったようです。

また、窓から排泄物を投げ捨てられることも多かったのです。ちなみに美しいイメージのある中世ヨーロッパも当時は街も汚物まみれで臭かったそうですよ。男性が帽子を被り、女性が傘をさしていたのも窓から投げ捨てられた排泄物避けのためでした。1600年代にパリでハイヒールが流行り始めたのも、路上に捨てられている糞尿を踏む面積を少なくするために作られたものだったのです。

 

またまた、夢を壊すようで申し訳ないですけど、美しいヴェルサイユ宮殿も排泄物だらけで臭かったそうですよ。

 

貴族も貴婦人たちもおまる持参だったそうです。暖炉で用を足す男性も多かったとか。

ショックかもしれませんが、これが現実です。

 

日本は糞尿が昭和まで農業に用いられていて、毎日排泄物を扱っていたことから、日本人の中で排泄そのものに対する抵抗感は強くならなかったようです。

そういうこともあって、日本人は排泄に関する話は比較的オープンにするし、芸能人やアイドルが排泄の話をすることも珍しくないです。そういった認識の違いが、日本と欧米のトイレ事情の明暗を分けたと言えます。

こんなところにまで二元論は影響していました。おぞましいですね、キリスト教は。

二元論はどこまでも足を引っ張る要素しか持ち合わせていないですね。