石原慎太郎都知事は3月29日の記者会見で

「桜が咲いたからといって、一杯飲んで歓談するような状況じゃない」

「夜間、明かりをつけての花見は自粛すべき」と発言。

太平洋戦争を引き合いに

「同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感ができてくる」

「戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」

30日の集会では

「昼間だろうと花見で酒飲んでる時代じゃない。東京で花見なんかするわけには、絶対にいかない」

と語った。


‘天罰’発言にもがっかりしましたが、

お花見自粛令にもほとほとうんざりしてしまいました。


災害は戦争ではありません。

戦時中を例えに引き出すだなんて、おかしいです。


だいたい、終戦時に知事は小学校に入ったばかりの年齢だったはず。

「戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」

なんて、実感としてあったわけないのに。


ネットで検索してみましたが、戦時中でもお花見はあったらしいです。

今とは全然規模が違いますが、花見禁止令もなく、

配給されたお酒や、密造したお酒等を飲んだらしいです。


物書きでインテリな知事だって知っているんじゃないかな???


桜のお花見の歴史も調べてみたら、

履中天皇の時代で、履中3年(402年)11月に、

天皇と皇后が磐余の市磯池に舟を浮かべ宴を催されたとき、

その盃の中に、桜の花びらが入ったと記されており、これが最古の記述とのこと。


花見は古来、日本人が季節の移ろいを花に感じて、生きていることや自然に感謝することから

始まった行事といえます。


お花見は、ただのどんちゃん騒ぎではなく、日本人にとって意義のあるイベントなんです。


桜は儚い美しさの象徴とされており、それゆえに人々はその慣習に重きを置いています。

人々は自分自身の人生と重ね合わせ、自分の人生も桜と同様に短いことを実感します。

だからこそ私たちは日々の生活に感謝し、残された人生を大切にしていかなければならないと

思い知らされます。そういった哲学的なことを桜から教わるのです。


節電はいいと思うけれど、なんでもかんでも過度の自粛では、

日本経済は低迷・衰退するばかりで、日本が散ってしまいます。