俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日は疲れてて昼寝
後、夕方体育館JYM鍛練に出陣
まづは脚大腿四頭筋・下腿三頭筋・尻大臀筋鍛練レッグプレス208㌔負荷5set計50回*
+脹ら脛ヒラメ筋鍛練カーフレイズ208㌔負荷5set計200回+内股内転筋鍛練アダクション62㌔負荷3set計60回+外転筋鍛練アブダクション62㌔負荷3set計66回+
大腿二頭筋ハムストリング鍛練レッグカール33㌔負荷3set計30回+35㌔負荷2set計20回+ラストウォーキング2.3キロ鍛練仕り申したぜィ
p(^^)q
今日5月23日は1536年天文5年に〈法華宗〉門徒衆が
〈比叡山=延暦寺〉と争い
京都洛中〈相国寺〉に布陣した日。
更に1541年天文10年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信虎〉(武田信玄父親)が娘婿の、信濃諏訪郡〈上原城〉(現長野県茅野市)主〈諏訪頼重〉と埴科郡〈葛尾城かつらお〉(現長野県埴科郡坂城町)主〈村上義清〉らと共に、信濃佐久郡へ侵攻して
〈海野棟綱〉を攻撃し〈海野平の合戦
〉で海野方を撃破し〈海野棟綱〉は上野〈平井城〉(現群馬県藤岡市)主〈関東菅領=山内上杉憲政〉を頼って逃げ
〈禰津氏〉〈矢沢氏〉〈望月氏〉らは〈武田信虎〉に服属した日。
更に1560年永禄3年5月19日〈桶狭間の合戦
〉で、駿河
遠江・三河の大守〈今川義元〉が、尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉に討ち取られると
〈今川義元〉に尾張攻めの先鋒を命じられていた〈松平元康=後の徳川家康〉は、今川方最前線〈大高城〉(現愛知県名古屋市緑区)への兵糧米搬入を無事済ませ、織田方〈丸根砦〉を攻略していたが〈田楽狭間〉(現愛知県名古屋市緑区)で、総大将〈今川義元〉討死の急報がもたらされ
取るものもとりあえず
尾張から故郷三河〈岡崎〉へと撤退してきたが…今川方の城代〈山田景隆〉が〈岡崎城〉に在城していたために入城が出来ず
致し方なく
松平家先祖類代の菩提寺〈大樹寺〉(現愛知県岡崎市)に入った後、総大将〈今川義元〉討死で
織田軍の反撃と〈松平党〉の謀叛を恐れた今川家城代が
〈駿府〉へと撤退して行った為
難なく〈岡崎城〉に人質となって以来、実に12年振りに入城出来た日
更に1561年永禄4年に前年〈桶狭間の合戦
〉で「東海道一の弓取り」〈今川義元〉を討ち取った
尾張〈清州城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉が
亡き岳父〈蝮=斎藤利政入道道三〉の遺言状
に従って美濃へ侵攻を開始し
〈稲場山城〉(現岐阜県岐阜市)主〈斎藤龍興〉(斎藤義竜嫡男)が早朝〈十四条の合戦
〉となった日で
織田軍を迎撃し
〈北軽海〉で対陣するが、夜戦に及んで斎藤軍を撃退し
翌朝〈織田信長〉も〈墨俣〉(現岐阜県大垣市)まで撤退したのだった
更に1565年天文8年に〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉が対立する
三好宗家を継ぐ〈三好義継〉(三好長慶養継子)と大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾正少弼久秀〉嫡男〈松永義久=後の松永久通〉軍が、大和奈良〈興福寺=一条院〉を破壊・放火した日
更に1567年永禄10年に〈三好三人衆〉方〈池田勝正〉軍が大和〈宿院城〉(現奈良県)の〈松永弾正〉軍に18日夜襲を仕掛け
〈宿院城〉(現奈良県奈良市)西側〈大豆山〉に〈池田勝正〉軍が布陣した日
更に1569年永禄2年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉による駿河
攻め
で〈駿府城〉(現静岡県静岡市)から逃れて
重臣〈朝比奈備中守泰朝〉の、遠江〈掛川城〉(現静岡県掛川市)へと逃げ込んだ〈今川氏真〉(今川義元嫡男)は5月17日に〈武田信玄〉と相呼応して三河から遠江に攻め込んで来た〈徳川家康〉に〈掛川城〉を包囲され
〈徳川家康〉からの和睦勧告で〈掛川城〉を開城して、舅である相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉隠居〈北条氏康〉父子を頼り、海路
船で相模へと送られ、後に伊豆〈戸倉城〉(現静岡県駿東郡清水町)へと入城し
〈今川氏真〉は、義兄〈北条氏政〉の子〈国王丸=後の北条氏直〉を養子として、駿河
を譲渡する約定を取り交わし〈北条氏康〉〈北条氏政〉父子は、駿河
を属国として併合する
大義名分を得たのであった。
その為〈北条氏政〉は、大軍を率いて駿河
に出陣
海陸
両面から〈武田信玄〉を攻撃する構えで
遠江〈掛川城〉の〈徳川家康〉共「相遠同盟」を結んで〈武田信玄〉を挟撃出来る態勢を整える一方で〈北条氏康〉は
宿敵、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉との「越相同盟」を画策していたのだった…
更に1574年天正2年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が包囲する、遠江〈高天神城〉(現静岡県掛川市)主〈小笠原長忠=後の小笠原信興〉から申し出た和睦条件を承認した開城条件を記した誓詞を与えたが交渉には締結しなかった日。
更に1581年天正9年に前日遠江〈高天神城〉将〈岡部元信〉〈栗田鶴寿〉らを玉砕させ攻略した
〈浜松城〉主〈徳川家康〉が〈高天神城〉に入城し
城内検視の折りに石牢に捕らえられていた〈大河内政局おおこうちまさもと〉を8年振りに救出した日
〈高天神城〉落城により〈高天神城〉を救援出来なかった
甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉に対して、国衆らは武田家を見限っていくのであった…
更に1582年天正10年に能登〈小丸山城〉(現石川県七尾市)主〈槍の又左=前田利家〉が〈七尾城〉より早飛脚を発した〈長連龍〉へ、前日越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉(長尾政景次男・上杉謙信甥)方の〈長景連〉を討ち取った事を賞賛し〈長景連〉の首級を近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉に送ることと上杉方残党掃討を促した日。
同じ日3月に〈武田勝頼〉を攻め滅ぼし
近江〈安土城〉主〈前右大臣信長〉から「関東菅領職」に任じられ、上野〈厩橋城うまやばし〉(現群馬県前橋市)に入城した重臣〈滝川左近将監一益〉が、越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田修理亮勝家〉率いる織田軍の越中侵攻に呼応して、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉を挟撃せんとして〈三国峠〉を越えて越後へ侵攻を開始し
越後〈清水城〉(現新潟県南魚沼市)主〈長尾伊賀守〉と〈樺沢城〉(現新潟県南魚沼市)代〈栗林政頼〉が迎撃して〈滝川一益〉が敗退した日
同じ日〈武田勝頼〉滅亡後、信濃〈海津城〉(現長野県長野市)主となった〈森長可〉(森吉可長男・森蘭丸兄)軍は〈柴田勝家〉〈滝川一益〉らに呼応して越後へ侵攻を開始し
〈関川口〉を突破して〈田切城〉(現新潟県妙高市)将〈芋川親正〉を攻略した日
更に1584年天正12年に〈小牧・長久手戦役
〉で出陣中の〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉の隙を突いて、京都洛中で〈佐久間道徳〉(佐久間信盛次男)謀反事件が起こった事で京都七口の関所が固められた日。
更に1587年天正15年に九州豊後〈臼杵城〉(現大分県臼杵市)で隠居していた、キリシタン大名〈大友義鎮入道宗麟〉が死去した命日
享年58歳
時の〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉から〈鎮西探題〉に任ぜられた〈大友宗麟〉は、筑前・豊前をめぐり宿敵、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉と熾烈な戦いを繰り広げながら
九州全土平定を目指していたが…
薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉に日向〈木崎原の合戦
〉で大敗して以降、衰退
して〈大友宗麟〉に救援を要請して来た
〈日向守護職=伊東義祐〉の援軍要請に応えて
日向をキリシタンの国とすべく
日向へ出陣した大友十字軍だったが
〈耳川の合戦
〉で〈島津義久〉と激突し
団結力を欠いた大友十字軍は、精強島津軍に大敗を期してしまい
その後も、肥前で謀叛を起こした〈佐賀城〉(現佐賀県佐賀市)主〈龍造寺隆信〉にも〈今山の合戦
〉で敗れて〈島津義久〉の北上を余儀なくされ
大友家は次第に窮するに至り
〈大友宗麟〉は〈大坂城〉に伺候して、天下人〈関白=豊臣秀吉〉に島津討伐を要請した為、大友支援に出陣してきた豊臣の大軍により
九死に一生を獲て、豊後〈津久見〉(現大分県津久見市)で余生をおくっていたのだった…
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義宣〉隠居〈佐竹義重〉父子と下野〈宇都宮城〉(現栃木県宇都宮市)主〈宇都宮国綱〉と共に〈石田三成〉を介して、相模〈小田原城〉攻め〈石垣山〉の〈関白=豊臣秀吉〉本陣に参陣し〈関白秀吉〉に謁見した日。
更に1593年文禄2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉で〈明国皇帝=万暦帝〉勅使(ちょくし)〈謝用梓〉〈徐一貫〉らが〈小西行長〉〈宗義智〉〈石田三成〉らと共に、肥前〈名護屋城〉(現佐賀県唐津市)で謁見した日。
〈太閤秀吉〉は〈明国〉との和議条件として、一〈明国皇帝=万暦帝〉の皇女を天皇家に嫁がせる事。一「勘合貿易」を再開させる事。一、朝鮮半島の南側領有を認める事。一、朝鮮王の皇子を人質として差し出す事。等を条件に挙げた事で〈小西行長〉〈宗義智〉は和議は不可能と判断し
〈小西行長〉は家臣〈内藤如安〉を〈明国〉首都〈北京〉に派遣して〈明国〉側〈沈惟敬〉も協力の上、いかにも〈太閤秀吉〉から〈明国〉への「冊封さっぽう」を望んでいるとして偽書「関白降表」を作成したのだった。
更に1615年元和元年〈大坂夏の陣
〉において5月8日亡き〈太閤=豊臣秀吉〉が築城した、難攻不落の摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)が落城し
〈右大臣=豊臣秀頼〉〈淀殿〉母子は共に自害して果て豊臣家は滅んだかと思われたが…
しかし〈豊臣秀頼〉の従兄弟にあたる〈京極忠高〉が〈天秀尼〉を、徳川幕府に差し出し〈国松丸〉が〈大坂城〉を脱出したと通報した為に〈国松丸〉は、徳川幕府の落人狩りで捕らえられ
乳母と傅役〈田中六郎左衛門〉と共に、京都〈
鴨川
六条河原で斬首された日
享年8歳
この〈京極忠高〉は、亡き〈浅井長政〉忘れ形見、浅井三姉妹の次女にして〈淀殿〉の妹〈初〉の子で〈豊臣秀頼〉とは従兄弟にあたり〈豊臣秀頼〉には二人の子があり、亡き〈太閤秀吉〉の孫にあたるのが〈国松丸〉と〈奈阿姫=後の天秀尼〉であった。
〈大坂城〉を脱した
〈国松丸〉は〈伏見〉で病に臥していたところ〈京都所司代=板倉勝重〉家臣に捕らえられ、京都〈
鴨川
六条河原〉に引き出されて〈国松丸〉は、僅か8歳で斬首され
見物人達は口々に「何と哀れなことよ
」と嘆いたのだった
かつて…亡き〈太閤秀吉〉の側室〈淀殿〉と「醍醐の花見

」で〈太閤秀吉〉の杯の序列を競い合った側室〈京極松の丸殿〉(京極忠高の伯母)は
哀れな〈国松丸〉の小さな遺骸を秘かに譲り受け、亡き〈太閤秀吉〉の墓所〈阿弥陀ヶ峯〉(現京都市東山区)の山麓に葬ったのだった
今は〈国松丸〉の墓に訪れる者も少なく
偉大な祖父〈太閤秀吉〉と共にひっそりと眠っていいるのだ
…
一方の〈奈阿姫=後の天秀尼〉は、徳川幕府の意向により、かつて鎌倉幕府八代執権〈北条時宗〉正室〈覚山尼〉が開いた尼寺
鎌倉〈東慶寺〉(現神奈川県鎌倉市)に送られ、豊臣家の菩提を弔いながら生涯をおくったのであった…
よって件の如し
恐々謹言皐月二十三日
太閤
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今朝もセレブ出勤
昨日は疲れてて昼寝
後、夕方体育館JYM鍛練に出陣
まづは脚大腿四頭筋・下腿三頭筋・尻大臀筋鍛練レッグプレス208㌔負荷5set計50回*+脹ら脛ヒラメ筋鍛練カーフレイズ208㌔負荷5set計200回+内股内転筋鍛練アダクション62㌔負荷3set計60回+外転筋鍛練アブダクション62㌔負荷3set計66回+
大腿二頭筋ハムストリング鍛練レッグカール33㌔負荷3set計30回+35㌔負荷2set計20回+ラストウォーキング2.3キロ鍛練仕り申したぜィ
p(^^)q今日5月23日は1536年天文5年に〈法華宗〉門徒衆が
〈比叡山=延暦寺〉と争い
京都洛中〈相国寺〉に布陣した日。更に1541年天文10年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信虎〉(武田信玄父親)が娘婿の、信濃諏訪郡〈上原城〉(現長野県茅野市)主〈諏訪頼重〉と埴科郡〈葛尾城かつらお〉(現長野県埴科郡坂城町)主〈村上義清〉らと共に、信濃佐久郡へ侵攻して
〈海野棟綱〉を攻撃し〈海野平の合戦
〉で海野方を撃破し〈海野棟綱〉は上野〈平井城〉(現群馬県藤岡市)主〈関東菅領=山内上杉憲政〉を頼って逃げ
〈禰津氏〉〈矢沢氏〉〈望月氏〉らは〈武田信虎〉に服属した日。更に1560年永禄3年5月19日〈桶狭間の合戦
〉で、駿河
遠江・三河の大守〈今川義元〉が、尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉に討ち取られると
〈今川義元〉に尾張攻めの先鋒を命じられていた〈松平元康=後の徳川家康〉は、今川方最前線〈大高城〉(現愛知県名古屋市緑区)への兵糧米搬入を無事済ませ、織田方〈丸根砦〉を攻略していたが〈田楽狭間〉(現愛知県名古屋市緑区)で、総大将〈今川義元〉討死の急報がもたらされ
取るものもとりあえず
尾張から故郷三河〈岡崎〉へと撤退してきたが…今川方の城代〈山田景隆〉が〈岡崎城〉に在城していたために入城が出来ず
致し方なく
松平家先祖類代の菩提寺〈大樹寺〉(現愛知県岡崎市)に入った後、総大将〈今川義元〉討死で
織田軍の反撃と〈松平党〉の謀叛を恐れた今川家城代が
〈駿府〉へと撤退して行った為
難なく〈岡崎城〉に人質となって以来、実に12年振りに入城出来た日
更に1561年永禄4年に前年〈桶狭間の合戦
〉で「東海道一の弓取り」〈今川義元〉を討ち取った
尾張〈清州城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉が
亡き岳父〈蝮=斎藤利政入道道三〉の遺言状
に従って美濃へ侵攻を開始し
〈稲場山城〉(現岐阜県岐阜市)主〈斎藤龍興〉(斎藤義竜嫡男)が早朝〈十四条の合戦
〉となった日で
織田軍を迎撃し
〈北軽海〉で対陣するが、夜戦に及んで斎藤軍を撃退し
翌朝〈織田信長〉も〈墨俣〉(現岐阜県大垣市)まで撤退したのだった
更に1565年天文8年に〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉が対立する
三好宗家を継ぐ〈三好義継〉(三好長慶養継子)と大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾正少弼久秀〉嫡男〈松永義久=後の松永久通〉軍が、大和奈良〈興福寺=一条院〉を破壊・放火した日
更に1567年永禄10年に〈三好三人衆〉方〈池田勝正〉軍が大和〈宿院城〉(現奈良県)の〈松永弾正〉軍に18日夜襲を仕掛け
〈宿院城〉(現奈良県奈良市)西側〈大豆山〉に〈池田勝正〉軍が布陣した日
更に1569年永禄2年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉による駿河
攻め
で〈駿府城〉(現静岡県静岡市)から逃れて
重臣〈朝比奈備中守泰朝〉の、遠江〈掛川城〉(現静岡県掛川市)へと逃げ込んだ〈今川氏真〉(今川義元嫡男)は5月17日に〈武田信玄〉と相呼応して三河から遠江に攻め込んで来た〈徳川家康〉に〈掛川城〉を包囲され
〈徳川家康〉からの和睦勧告で〈掛川城〉を開城して、舅である相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉隠居〈北条氏康〉父子を頼り、海路
船で相模へと送られ、後に伊豆〈戸倉城〉(現静岡県駿東郡清水町)へと入城し
〈今川氏真〉は、義兄〈北条氏政〉の子〈国王丸=後の北条氏直〉を養子として、駿河
を譲渡する約定を取り交わし〈北条氏康〉〈北条氏政〉父子は、駿河
を属国として併合する
大義名分を得たのであった。その為〈北条氏政〉は、大軍を率いて駿河
に出陣
海陸
両面から〈武田信玄〉を攻撃する構えで
遠江〈掛川城〉の〈徳川家康〉共「相遠同盟」を結んで〈武田信玄〉を挟撃出来る態勢を整える一方で〈北条氏康〉は
宿敵、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉との「越相同盟」を画策していたのだった…更に1574年天正2年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が包囲する、遠江〈高天神城〉(現静岡県掛川市)主〈小笠原長忠=後の小笠原信興〉から申し出た和睦条件を承認した開城条件を記した誓詞を与えたが交渉には締結しなかった日。
更に1581年天正9年に前日遠江〈高天神城〉将〈岡部元信〉〈栗田鶴寿〉らを玉砕させ攻略した
〈浜松城〉主〈徳川家康〉が〈高天神城〉に入城し
城内検視の折りに石牢に捕らえられていた〈大河内政局おおこうちまさもと〉を8年振りに救出した日
〈高天神城〉落城により〈高天神城〉を救援出来なかった
甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉に対して、国衆らは武田家を見限っていくのであった…更に1582年天正10年に能登〈小丸山城〉(現石川県七尾市)主〈槍の又左=前田利家〉が〈七尾城〉より早飛脚を発した〈長連龍〉へ、前日越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉(長尾政景次男・上杉謙信甥)方の〈長景連〉を討ち取った事を賞賛し〈長景連〉の首級を近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉に送ることと上杉方残党掃討を促した日。
同じ日3月に〈武田勝頼〉を攻め滅ぼし
近江〈安土城〉主〈前右大臣信長〉から「関東菅領職」に任じられ、上野〈厩橋城うまやばし〉(現群馬県前橋市)に入城した重臣〈滝川左近将監一益〉が、越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田修理亮勝家〉率いる織田軍の越中侵攻に呼応して、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉を挟撃せんとして〈三国峠〉を越えて越後へ侵攻を開始し
越後〈清水城〉(現新潟県南魚沼市)主〈長尾伊賀守〉と〈樺沢城〉(現新潟県南魚沼市)代〈栗林政頼〉が迎撃して〈滝川一益〉が敗退した日
同じ日〈武田勝頼〉滅亡後、信濃〈海津城〉(現長野県長野市)主となった〈森長可〉(森吉可長男・森蘭丸兄)軍は〈柴田勝家〉〈滝川一益〉らに呼応して越後へ侵攻を開始し
〈関川口〉を突破して〈田切城〉(現新潟県妙高市)将〈芋川親正〉を攻略した日
更に1584年天正12年に〈小牧・長久手戦役
〉で出陣中の〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉の隙を突いて、京都洛中で〈佐久間道徳〉(佐久間信盛次男)謀反事件が起こった事で京都七口の関所が固められた日。更に1587年天正15年に九州豊後〈臼杵城〉(現大分県臼杵市)で隠居していた、キリシタン大名〈大友義鎮入道宗麟〉が死去した命日
享年58歳
時の〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉から〈鎮西探題〉に任ぜられた〈大友宗麟〉は、筑前・豊前をめぐり宿敵、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉と熾烈な戦いを繰り広げながら
九州全土平定を目指していたが…薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉に日向〈木崎原の合戦
〉で大敗して以降、衰退
して〈大友宗麟〉に救援を要請して来た
〈日向守護職=伊東義祐〉の援軍要請に応えて
日向をキリシタンの国とすべく
日向へ出陣した大友十字軍だったが
〈耳川の合戦
〉で〈島津義久〉と激突し
団結力を欠いた大友十字軍は、精強島津軍に大敗を期してしまい
その後も、肥前で謀叛を起こした〈佐賀城〉(現佐賀県佐賀市)主〈龍造寺隆信〉にも〈今山の合戦
〉で敗れて〈島津義久〉の北上を余儀なくされ
大友家は次第に窮するに至り
〈大友宗麟〉は〈大坂城〉に伺候して、天下人〈関白=豊臣秀吉〉に島津討伐を要請した為、大友支援に出陣してきた豊臣の大軍により
九死に一生を獲て、豊後〈津久見〉(現大分県津久見市)で余生をおくっていたのだった…更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義宣〉隠居〈佐竹義重〉父子と下野〈宇都宮城〉(現栃木県宇都宮市)主〈宇都宮国綱〉と共に〈石田三成〉を介して、相模〈小田原城〉攻め〈石垣山〉の〈関白=豊臣秀吉〉本陣に参陣し〈関白秀吉〉に謁見した日。更に1593年文禄2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉で〈明国皇帝=万暦帝〉勅使(ちょくし)〈謝用梓〉〈徐一貫〉らが〈小西行長〉〈宗義智〉〈石田三成〉らと共に、肥前〈名護屋城〉(現佐賀県唐津市)で謁見した日。〈太閤秀吉〉は〈明国〉との和議条件として、一〈明国皇帝=万暦帝〉の皇女を天皇家に嫁がせる事。一「勘合貿易」を再開させる事。一、朝鮮半島の南側領有を認める事。一、朝鮮王の皇子を人質として差し出す事。等を条件に挙げた事で〈小西行長〉〈宗義智〉は和議は不可能と判断し
〈小西行長〉は家臣〈内藤如安〉を〈明国〉首都〈北京〉に派遣して〈明国〉側〈沈惟敬〉も協力の上、いかにも〈太閤秀吉〉から〈明国〉への「冊封さっぽう」を望んでいるとして偽書「関白降表」を作成したのだった。更に1615年元和元年〈大坂夏の陣
〉において5月8日亡き〈太閤=豊臣秀吉〉が築城した、難攻不落の摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)が落城し
〈右大臣=豊臣秀頼〉〈淀殿〉母子は共に自害して果て豊臣家は滅んだかと思われたが…しかし〈豊臣秀頼〉の従兄弟にあたる〈京極忠高〉が〈天秀尼〉を、徳川幕府に差し出し〈国松丸〉が〈大坂城〉を脱出したと通報した為に〈国松丸〉は、徳川幕府の落人狩りで捕らえられ
乳母と傅役〈田中六郎左衛門〉と共に、京都〈
鴨川
六条河原で斬首された日
享年8歳
この〈京極忠高〉は、亡き〈浅井長政〉忘れ形見、浅井三姉妹の次女にして〈淀殿〉の妹〈初〉の子で〈豊臣秀頼〉とは従兄弟にあたり〈豊臣秀頼〉には二人の子があり、亡き〈太閤秀吉〉の孫にあたるのが〈国松丸〉と〈奈阿姫=後の天秀尼〉であった。
〈大坂城〉を脱した
〈国松丸〉は〈伏見〉で病に臥していたところ〈京都所司代=板倉勝重〉家臣に捕らえられ、京都〈
鴨川
六条河原〉に引き出されて〈国松丸〉は、僅か8歳で斬首され
見物人達は口々に「何と哀れなことよ
」と嘆いたのだった
かつて…亡き〈太閤秀吉〉の側室〈淀殿〉と「醍醐の花見


」で〈太閤秀吉〉の杯の序列を競い合った側室〈京極松の丸殿〉(京極忠高の伯母)は
哀れな〈国松丸〉の小さな遺骸を秘かに譲り受け、亡き〈太閤秀吉〉の墓所〈阿弥陀ヶ峯〉(現京都市東山区)の山麓に葬ったのだった
今は〈国松丸〉の墓に訪れる者も少なく
偉大な祖父〈太閤秀吉〉と共にひっそりと眠っていいるのだ
…一方の〈奈阿姫=後の天秀尼〉は、徳川幕府の意向により、かつて鎌倉幕府八代執権〈北条時宗〉正室〈覚山尼〉が開いた尼寺
鎌倉〈東慶寺〉(現神奈川県鎌倉市)に送られ、豊臣家の菩提を弔いながら生涯をおくったのであった…よって件の如し

恐々謹言皐月二十三日
太閤
昨日は職場の〈豆柴ヒロクン〉と無駄話ししててムッチャ晩くナッシブルな上に電車寝過ごして
上着職場に置いてきたから寒ゥ
越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉が
近江〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)主〈石田治部少輔三成〉が、豊臣家奉行として豊臣政権を危うくすると考え
が止み、かくして21日早朝〈長篠設楽ヶ原の合戦
二発目の発射まで時間が掛かる手間の掛かる為、その間に機動性に優れた騎馬武者
総大将〈織田信長〉は





