俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日も京へ上洛前近所のコンビニでバイトしてたムッチャメッチャ日焼けした高校生だった〈イケメンア〇〇ラくん〉が今は大学4年生で
駅前コンビニでバイト夜勤明けだったから
またmonster遣わした
あんだけイケメンだったらジャニーズ入れるワ
(笑)
昨日も無駄な残業だったから
急ぎ帰還して体育館JYM鍛練に出陣
45分間鍛練まづは肩三角筋鍛練ケーブルサイドレイズ30㌔負荷左右
各3setづつ各計60回づつ+35㌔負荷左右
各2setづつ各計20回づつ+肩三角筋後部鍛練ダンベルリアレイズ14㌔負荷5set計100回+肩三角筋前部鍛練ダンベルフロントレイズ14㌔負荷3set計30回+ラスト乳筋・肩三角筋・上腕三頭筋鍛練自重ディップス1set計20回鍛練仕り申したぜィ
p(^^)q
今日5月26日は1467年応仁元年に〈上御霊社の合戦
〉が勃発して、京都を焼け野原にした〈応仁の乱
〉に突入した日。
〈室町幕府第八代将軍=足利義政〉は、正室〈将軍御代=日野富子〉との間に長く嫡男に恵まれず
僧侶となっていた弟〈義尋ぎじん=後に足利義視〉を還俗させて
九代将軍職を譲るとし
幕府〈管領=細川勝元〉を〈足利義視あしかがよしみ〉の後見役と定めたのだった
すると正室〈御代=日野富子〉に嫡男が誕生
(後の九代将軍足利義尚)した為
〈曰野富子〉は次期将軍職を嫡男に相続させる様
夫〈将軍義政〉に願い出たが
優柔不断で煮えきらず
〈日野富子〉は、幕府〈管領=細川勝元〉と同じく、幕府評定衆の実力者〈四職=山名持豊入道宗全〉に、我が子〈後の足利義尚〉の後見役を要請したのだった…
〈将軍義政〉は指導力を欠き
当時、河内守護畠山家が家督相続争いとなっていた〈畠山政長〉と、従兄弟同士である〈畠山義就〉との対立が極限状態に陥り
これに将軍継承問題が重なり、京都〈上御霊神社〉(現京都市上京区)で〈管領=畠山政長〉軍と〈畠山義就〉軍が激突し
京都洛中を焼け野原にしていく、永き〈応仁の乱
〉が勃発し〈将軍義政〉が「いづれにも関与するべからず
」との命令を無視して〈畠山義就〉軍に〈山名宗全入道〉〈斯波義廉〉〈一色義直〉らが加勢
し〈応仁の乱
=上御霊社の合戦
〉が開始され
多勢に無勢で〈管領=畠山政長〉軍は〈上御霊神社〉の森から敗走し
山名・畠山・斯波・一色連合軍の勝利に見えたが…
一方〈将軍義政〉の命令を遵守していた〈菅領=細川勝元〉は幕府軍として
ついに謀叛軍討伐の為、挙兵に及び〈武田信賢〉〈京極持清〉〈赤松政則〉〈管領=畠山政長〉らが京都洛中〈
堀川
〉を挟んで対峙し、細川方は領地の摂津・丹波・讃岐・土佐から軍勢を呼び寄せた為、山名方を上回る総勢16万の大軍となり
幕府軍が優勢となった
これに対して〈山名宗全入道〉も領地の但馬・備後・安芸他から軍勢を召し寄せ総勢9万となり
京都洛中
堀川
の東側に布陣する幕府軍の御旗を掲げる〈管領=細川勝元〉方を東軍〈
堀川
〉の西側に陣を構えた〈山名宗全入道〉方を西軍とし〈山名宗全入道〉の陣営一帯を「西陣」と呼んで、後に織物で有名な「西陣織」として知られている…
そして〈将軍義政〉は、東軍細川方に、一方〈将軍御代=日野富子〉は、西軍山名方に肩入れし、その後東西両軍は京都洛中洛外各所で激突し
平安時代からの由緒有る寺社仏閣は、ことごとくが焼き払われ
京の都は一面焼け野原となってしまったのであった
また東西両軍は、朝廷の〈上皇〉や〈天皇〉を味方とすべく争奪し合い、兵力差で劣っていた、西軍山名方に8月には〈明国〉との「勘合貿易」をめぐり〈管領=細川勝元〉と対立していた
周防・長門・豊前・筑前他を領する守護大名〈大内政弘〉が大軍を率いて
京都に上洛して来た為、東西両軍の戦闘
は拮抗して、いつ果てるともしれず、果てしなく〈応仁の乱
〉は激化・長期戦化していったのであった…
更に1545年天文14年に京都を奪回した〈細川晴元〉は〈細川政長〉と〈三好範長=後の三好長慶〉らに〈細川氏綱〉方残党狩りを命じて〈三室戸〉の〈大鳳寺〉(現京都府宇治市)に布陣して放火した日。
更に1550年天文19年に駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉息女〈後の隆福院〉(武田義信正室妹)が死去した命日
更に1551年天文20年に〈砥石崩れ〉により敗退していた
甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉家臣、信濃先方衆〈真田幸隆〉が計略を巡らして、信濃埴科郡〈葛尾城かつらお〉(現長野県埴科郡坂城町)主〈村上義清〉方支城の小県郡〈砥石城〉(現長野県上田市)将〈山田国政〉を僅か1日で攻略し
〈真田幸隆〉は、かつて〈武田信虎〉(武田信玄父親)と〈村上義清〉により奪取された悲願の旧領地を奪還した日。
更に1552年天文21年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が〈後奈良天皇〉から「従五位」「弾正少弼」に任じられた日
更に1556年弘治2年に尾張〈清州城〉(現愛知県清須市)主〈織田上総介信長〉が〈守山城〉(現愛知県名古屋市守山区)主〈織田秀俊=織田秀時〉を伴い、〈末森城〉(現愛知県名古屋市千種区)主〈織田信勝〉(織田信長弟)を擁立して謀反するという噂の有る、織田家譜代重臣〈那古屋城〉(現愛知県名古屋市中区)代〈林秀貞=林通勝〉を訪れた日で〈林秀貞〉の弟〈林美作守通具〉の謀叛の企てを兄の〈林秀貞〉が反対したのだった…
更に1559年永禄2年に公卿〈三条西実澄=後の三条西実枝〉が、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市葵区)主〈今川義元〉を訪ねて京都から2回目の下向した日。
更に1580年天正8年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉方の、遠江〈高天神城〉(現静岡県掛川市)将〈岡部丹波守元信=岡部長教〉が、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉の侵攻に備えて〈武田勝頼〉に援軍を要請したのだった…
更に1582年天正10年に天下統一を目前にする
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉は、重臣筆頭〈柴田修理亮勝家〉〈前田又左衛門利家〉〈佐々内蔵助成政〉〈不破光治〉〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉〈金森長近〉らに北陸の攻略を命じ
越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉謙信〉亡き後の家督相続争い〈御館の乱
〉を征し〈上杉景勝〉〈直江兼続〉の越後が疲弊している隙に、加賀・能登・越中と制圧下にした〈柴田勝家〉率いる織田軍は上杉方越中〈松倉城〉(現富山県魚津市)を攻略した日
勢いにのる織田軍は、越中〈魚津城〉(現富山県魚津市)を包囲して
5月8日越後から援軍に駆けつけて来た〈上杉景勝〉〈直江兼続〉らが〈天神山城〉(現富山県魚津市)に入城して
両軍睨み合いとなっていたが…
甲斐〈武田勝頼〉を攻め滅ぼした後、越後に向けて、北信濃〈海津城〉(現長野県長野市)主となっていた織田家臣〈森長可〉(森吉可長男・森蘭丸兄)や、他に上野〈厩橋城〉(現群馬県前橋市)に入城して〈前右大信長〉から「関東菅領職」を任命されていた〈滝川左近将監一益〉が、上野から〈三国峠〉を越えて
越後に侵攻しようとしているという事態に
〈上杉景勝〉は〈魚津城〉救援を断念し
〈天神山城〉から撤退せざるを得なくなるのであった
一方〈前右大臣信長〉から、備中〈
高松城水攻め
〉中の〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉への援軍に出陣する様に命じられた〈明智日向守光秀〉が、近江〈坂本城〉(現滋賀県大津市)を発って
丹波〈亀山城〉(現京都府亀岡市)に入城した日
更に1583年天正11年に〈本能寺の変
〉後の混乱に乗じて、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)隠居〈北条氏政〉が北上野に入り
信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉が、上野〈羽根尾城〉(現群馬県吾妻郡長野原町)に家臣〈湯本三郎右衛門〉を入城させた日。
更に1585年天正13年に相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子の圧力に降伏した、上野〈金山城〉(現群馬県太田市)主〈由良国繁〉が〈桐生城〉(現群馬県桐生市)へ退去し、弟〈長尾顕長〉も上野〈館林城〉(現群馬県館林市)から下野〈足利城〉(現栃木県足利市)へ退去した日、そして〈金山城〉には、武蔵〈鉢形城〉(現埼玉県大里郡寄居町)主〈北条安房守氏邦〉(北条氏康五男)が入城し
〈館林城〉へは、伊豆〈韮山城〉(現静岡県伊豆の国市)主〈北条美濃守氏規〉(北条氏康四男)が入城した日。
更に1586年天正14年に遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉が「徳川四天王」とうたわれた家臣〈榊原小平太康政〉を名代として、京都洛中〈聚楽第じゅらくてい〉(現京都府京都市上京区)の天下人〈関白=豊臣秀吉〉のもとに派遣した日で〈関白秀吉〉はかつて〈小牧・長久手の合戦
〉時に〈羽柴秀吉=後の関白秀吉〉を嘲笑した罪で〈榊原康政〉に懸賞金を掛けたが、既に時効となったと伝え〈関白秀吉〉は〈榊原康政〉の武勇と忠誠心を賞賛したのだった
更に1587年天正15年に天下人〈関白秀吉〉による
薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
降服した〈島津義久入道龍伯斎〉が、弟〈島津家久〉へ京都へ上洛を伝え、同じく弟〈島津義珍=後の島津義弘〉〈島津久保〉父子が〈鶴田城〉(現鹿児島県薩摩郡さつま町)に在陣中〈関白秀吉〉本陣を訪問した日。
同じ日〈島津龍伯斎〉〈島津義珍=後の島津義弘〉兄弟が、重臣〈北郷時久〉〈北郷忠虎〉父子に降服を促し日向〈都城〉〈安永〉〈末吉〉〈財部砦〉を開城して、大隅〈宮内〉で〈石田三成〉〈安国寺恵瓊〉を訪ねて謁見しm(__)m同じく
徹底抗戦を唱えていた〈大口城〉(現鹿児島県伊佐市)将〈新納忠元〉であったが
〈島津義珍=後の島津義弘〉の降参を受けて、ようやく降服開城して〈大口曾木=天堂ヶ尾〉(現鹿児島県伊佐市)の〈関白秀吉〉本陣に伺候して〈関白秀吉〉に謁見した日m(__)m
〈新納忠元〉は〈関白秀吉〉から「まだ戦うのか」と問われ「主君の命あらば直ぐにでも敵対仕る」と返答したという…
更に1598年慶長3年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命による
〈朝鮮出兵=慶長の役
〉で敵前逃亡し臆病者として
改易された〈大友義統〉(大友宗麟嫡男)の豊後のうち〈府内城〉(現大分県大分市)を〈福原直尭〉に〈早川長政〉には〈木築城=杵築城〉(現大分県杵築市)を与えた日。
よって件の如し
恐々謹言皐月二十六日
太閤
参上
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昨日も京へ上洛前近所のコンビニでバイトしてたムッチャメッチャ日焼けした高校生だった〈イケメンア〇〇ラくん〉が今は大学4年生で
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(笑)昨日も無駄な残業だったから
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各3setづつ各計60回づつ+35㌔負荷左右
各2setづつ各計20回づつ+肩三角筋後部鍛練ダンベルリアレイズ14㌔負荷5set計100回+肩三角筋前部鍛練ダンベルフロントレイズ14㌔負荷3set計30回+ラスト乳筋・肩三角筋・上腕三頭筋鍛練自重ディップス1set計20回鍛練仕り申したぜィ
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今日5月26日は1467年応仁元年に〈上御霊社の合戦
〉が勃発して、京都を焼け野原にした〈応仁の乱
〉に突入した日。〈室町幕府第八代将軍=足利義政〉は、正室〈将軍御代=日野富子〉との間に長く嫡男に恵まれず
僧侶となっていた弟〈義尋ぎじん=後に足利義視〉を還俗させて
九代将軍職を譲るとし
幕府〈管領=細川勝元〉を〈足利義視あしかがよしみ〉の後見役と定めたのだった
すると正室〈御代=日野富子〉に嫡男が誕生
(後の九代将軍足利義尚)した為
〈曰野富子〉は次期将軍職を嫡男に相続させる様
夫〈将軍義政〉に願い出たが
優柔不断で煮えきらず
〈日野富子〉は、幕府〈管領=細川勝元〉と同じく、幕府評定衆の実力者〈四職=山名持豊入道宗全〉に、我が子〈後の足利義尚〉の後見役を要請したのだった…〈将軍義政〉は指導力を欠き
当時、河内守護畠山家が家督相続争いとなっていた〈畠山政長〉と、従兄弟同士である〈畠山義就〉との対立が極限状態に陥り
これに将軍継承問題が重なり、京都〈上御霊神社〉(現京都市上京区)で〈管領=畠山政長〉軍と〈畠山義就〉軍が激突し
京都洛中を焼け野原にしていく、永き〈応仁の乱
〉が勃発し〈将軍義政〉が「いづれにも関与するべからず
」との命令を無視して〈畠山義就〉軍に〈山名宗全入道〉〈斯波義廉〉〈一色義直〉らが加勢
し〈応仁の乱
=上御霊社の合戦
〉が開始され
多勢に無勢で〈管領=畠山政長〉軍は〈上御霊神社〉の森から敗走し
山名・畠山・斯波・一色連合軍の勝利に見えたが…一方〈将軍義政〉の命令を遵守していた〈菅領=細川勝元〉は幕府軍として
ついに謀叛軍討伐の為、挙兵に及び〈武田信賢〉〈京極持清〉〈赤松政則〉〈管領=畠山政長〉らが京都洛中〈
堀川
〉を挟んで対峙し、細川方は領地の摂津・丹波・讃岐・土佐から軍勢を呼び寄せた為、山名方を上回る総勢16万の大軍となり
幕府軍が優勢となった
これに対して〈山名宗全入道〉も領地の但馬・備後・安芸他から軍勢を召し寄せ総勢9万となり
京都洛中
堀川
の東側に布陣する幕府軍の御旗を掲げる〈管領=細川勝元〉方を東軍〈
堀川
〉の西側に陣を構えた〈山名宗全入道〉方を西軍とし〈山名宗全入道〉の陣営一帯を「西陣」と呼んで、後に織物で有名な「西陣織」として知られている…そして〈将軍義政〉は、東軍細川方に、一方〈将軍御代=日野富子〉は、西軍山名方に肩入れし、その後東西両軍は京都洛中洛外各所で激突し
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また東西両軍は、朝廷の〈上皇〉や〈天皇〉を味方とすべく争奪し合い、兵力差で劣っていた、西軍山名方に8月には〈明国〉との「勘合貿易」をめぐり〈管領=細川勝元〉と対立していた
周防・長門・豊前・筑前他を領する守護大名〈大内政弘〉が大軍を率いて
京都に上洛して来た為、東西両軍の戦闘
は拮抗して、いつ果てるともしれず、果てしなく〈応仁の乱
〉は激化・長期戦化していったのであった…更に1545年天文14年に京都を奪回した〈細川晴元〉は〈細川政長〉と〈三好範長=後の三好長慶〉らに〈細川氏綱〉方残党狩りを命じて〈三室戸〉の〈大鳳寺〉(現京都府宇治市)に布陣して放火した日。
更に1550年天文19年に駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉息女〈後の隆福院〉(武田義信正室妹)が死去した命日
更に1551年天文20年に〈砥石崩れ〉により敗退していた
甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉家臣、信濃先方衆〈真田幸隆〉が計略を巡らして、信濃埴科郡〈葛尾城かつらお〉(現長野県埴科郡坂城町)主〈村上義清〉方支城の小県郡〈砥石城〉(現長野県上田市)将〈山田国政〉を僅か1日で攻略し
〈真田幸隆〉は、かつて〈武田信虎〉(武田信玄父親)と〈村上義清〉により奪取された悲願の旧領地を奪還した日。更に1552年天文21年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が〈後奈良天皇〉から「従五位」「弾正少弼」に任じられた日
更に1556年弘治2年に尾張〈清州城〉(現愛知県清須市)主〈織田上総介信長〉が〈守山城〉(現愛知県名古屋市守山区)主〈織田秀俊=織田秀時〉を伴い、〈末森城〉(現愛知県名古屋市千種区)主〈織田信勝〉(織田信長弟)を擁立して謀反するという噂の有る、織田家譜代重臣〈那古屋城〉(現愛知県名古屋市中区)代〈林秀貞=林通勝〉を訪れた日で〈林秀貞〉の弟〈林美作守通具〉の謀叛の企てを兄の〈林秀貞〉が反対したのだった…
更に1559年永禄2年に公卿〈三条西実澄=後の三条西実枝〉が、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市葵区)主〈今川義元〉を訪ねて京都から2回目の下向した日。更に1580年天正8年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉方の、遠江〈高天神城〉(現静岡県掛川市)将〈岡部丹波守元信=岡部長教〉が、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉の侵攻に備えて〈武田勝頼〉に援軍を要請したのだった…
更に1582年天正10年に天下統一を目前にする
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉は、重臣筆頭〈柴田修理亮勝家〉〈前田又左衛門利家〉〈佐々内蔵助成政〉〈不破光治〉〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉〈金森長近〉らに北陸の攻略を命じ
越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉謙信〉亡き後の家督相続争い〈御館の乱
〉を征し〈上杉景勝〉〈直江兼続〉の越後が疲弊している隙に、加賀・能登・越中と制圧下にした〈柴田勝家〉率いる織田軍は上杉方越中〈松倉城〉(現富山県魚津市)を攻略した日
勢いにのる織田軍は、越中〈魚津城〉(現富山県魚津市)を包囲して
5月8日越後から援軍に駆けつけて来た〈上杉景勝〉〈直江兼続〉らが〈天神山城〉(現富山県魚津市)に入城して
両軍睨み合いとなっていたが…甲斐〈武田勝頼〉を攻め滅ぼした後、越後に向けて、北信濃〈海津城〉(現長野県長野市)主となっていた織田家臣〈森長可〉(森吉可長男・森蘭丸兄)や、他に上野〈厩橋城〉(現群馬県前橋市)に入城して〈前右大信長〉から「関東菅領職」を任命されていた〈滝川左近将監一益〉が、上野から〈三国峠〉を越えて
越後に侵攻しようとしているという事態に
〈上杉景勝〉は〈魚津城〉救援を断念し
〈天神山城〉から撤退せざるを得なくなるのであった
一方〈前右大臣信長〉から、備中〈
高松城水攻め
〉中の〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉への援軍に出陣する様に命じられた〈明智日向守光秀〉が、近江〈坂本城〉(現滋賀県大津市)を発って
丹波〈亀山城〉(現京都府亀岡市)に入城した日
更に1583年天正11年に〈本能寺の変
〉後の混乱に乗じて、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)隠居〈北条氏政〉が北上野に入り
信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉が、上野〈羽根尾城〉(現群馬県吾妻郡長野原町)に家臣〈湯本三郎右衛門〉を入城させた日。更に1585年天正13年に相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子の圧力に降伏した、上野〈金山城〉(現群馬県太田市)主〈由良国繁〉が〈桐生城〉(現群馬県桐生市)へ退去し、弟〈長尾顕長〉も上野〈館林城〉(現群馬県館林市)から下野〈足利城〉(現栃木県足利市)へ退去した日、そして〈金山城〉には、武蔵〈鉢形城〉(現埼玉県大里郡寄居町)主〈北条安房守氏邦〉(北条氏康五男)が入城し
〈館林城〉へは、伊豆〈韮山城〉(現静岡県伊豆の国市)主〈北条美濃守氏規〉(北条氏康四男)が入城した日。更に1586年天正14年に遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉が「徳川四天王」とうたわれた家臣〈榊原小平太康政〉を名代として、京都洛中〈聚楽第じゅらくてい〉(現京都府京都市上京区)の天下人〈関白=豊臣秀吉〉のもとに派遣した日で〈関白秀吉〉はかつて〈小牧・長久手の合戦
〉時に〈羽柴秀吉=後の関白秀吉〉を嘲笑した罪で〈榊原康政〉に懸賞金を掛けたが、既に時効となったと伝え〈関白秀吉〉は〈榊原康政〉の武勇と忠誠心を賞賛したのだった
更に1587年天正15年に天下人〈関白秀吉〉による
薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
降服した〈島津義久入道龍伯斎〉が、弟〈島津家久〉へ京都へ上洛を伝え、同じく弟〈島津義珍=後の島津義弘〉〈島津久保〉父子が〈鶴田城〉(現鹿児島県薩摩郡さつま町)に在陣中〈関白秀吉〉本陣を訪問した日。同じ日〈島津龍伯斎〉〈島津義珍=後の島津義弘〉兄弟が、重臣〈北郷時久〉〈北郷忠虎〉父子に降服を促し日向〈都城〉〈安永〉〈末吉〉〈財部砦〉を開城して、大隅〈宮内〉で〈石田三成〉〈安国寺恵瓊〉を訪ねて謁見しm(__)m同じく
徹底抗戦を唱えていた〈大口城〉(現鹿児島県伊佐市)将〈新納忠元〉であったが
〈島津義珍=後の島津義弘〉の降参を受けて、ようやく降服開城して〈大口曾木=天堂ヶ尾〉(現鹿児島県伊佐市)の〈関白秀吉〉本陣に伺候して〈関白秀吉〉に謁見した日m(__)m〈新納忠元〉は〈関白秀吉〉から「まだ戦うのか」と問われ「主君の命あらば直ぐにでも敵対仕る」と返答したという…
更に1598年慶長3年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命による
〈朝鮮出兵=慶長の役
〉で敵前逃亡し臆病者として
改易された〈大友義統〉(大友宗麟嫡男)の豊後のうち〈府内城〉(現大分県大分市)を〈福原直尭〉に〈早川長政〉には〈木築城=杵築城〉(現大分県杵築市)を与えた日。よって件の如し

恐々謹言皐月二十六日
太閤
〈清州城〉(現愛知県清須市)主〈織田上総介信長〉と敵対するのだった…
弟〈羽柴長秀=後の大和大納言豊臣秀長〉をして反旗を翻した、播磨〈三木城〉(現兵庫県三木市)主〈別所長治〉と〈前右大臣信長〉に謀叛した






陸奥〈岩出山城〉(現宮城県大崎市)主〈独眼竜=伊達政宗〉が介在していると見て

