俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


4回目の緊急事態宣言発令
マジすかー
イヤーン
感染回避でもないけど
今朝もセレブ出勤
まったく足の引っ張り合いばかりでロックダウン出来る法律も創らぬ無能な自民・公明両党に野党に官僚どもの責任で、いったい
いつまで自粛規制継続するネン
日本中の会社倒産したら法人税も所得税も消費税も取れなくナッシブルですろー

もそっと法制化整備しろや
よって件の如し
今日7月9日は1544年天文13年に大洪水が発生し

京都〈
鴨川
〉の〈四条大橋〉〈五条大橋〉〈貴船神社〉〈鞍馬寺大門〉〈黒谷坊〉等が流失した日
更に1549年天文18年に摂津〈越水城〉(現大阪府)主〈三好長慶〉が、摂津・山城の国衆を味方につけて〈細川高国〉の養子〈細川氏綱〉を擁して京都へ上洛した日
〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉〈管領=細川晴元〉との苛烈な長い戦いが始まるのだった…
更に1573年元亀4年に天下統一を推し進める〈織田信長〉に対して
傀儡(かいらい)となることを嫌い
山城宇治〈槙島城〉(現京都府宇治市)で再び挙兵に及んだ〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉方の京都洛中〈二条御所〉(現京都府京都市上京区)を守備する幕臣〈三渕藤英みつぶちふじひで〉〈伊勢偵為〉〈高倉永相〉を攻めるべく
洛中〈妙覚寺〉に本陣を敷いた日
同じ日、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領職=山内上杉輝虎入道謙信〉が遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉や美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉に信濃・甲斐〈武田勝頼〉討伐のため出兵を促した日。
更に1574年天正2年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田勝頼〉が、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉方から寝返った〈高天神城〉(現静岡県掛川市)主〈小笠原長忠〉に武田家累代の諱(いみな)「信」の一字を与えられ〈小笠原信興〉と改名した日。
更に1582年天正10年に〈本能寺の変
〉に端を発した〈天正壬午の乱
〉で〈滝川一益〉を〈神流川の合戦
〉で撃退した
相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉が上野を手中にした上で、更に武田旧領信濃・甲斐をも制圧分国化すべく
〈碓氷峠うすいとうげ〉を越えて
信濃へ侵攻して来て
北条軍の圧迫に屈して
小県郡〈松尾城〉(現長野県上田市)主〈真田昌幸〉(真田幸村父親)が〈北条氏直〉に服属を申し出た日。
同じ日、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉織田家家臣〈河尻秀隆〉が武田旧臣らの一揆に殺害され
主無き地となった甲斐を平定せんと駿河
中道往還から〈甲府〉右左宿口に着陣
次々に武田旧臣830人余りを帰服させ味方に引き入れた日。
そして信濃へも出兵し
敵対する〈上杉景勝〉や〈北条氏直〉から織田家からの所領地を護るとして出兵したのだった
更に1583年天正11年に越中〈富山城〉(現富山県富山市)主〈佐々内蔵助成政〉が、亡き〈織田信長〉方に内応して、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉に謀叛した〈新発田城〉(現新潟県新発田市)主〈新発田重家〉に〈佐々成政〉自ら〈春日山城〉攻撃に出馬する為、共に相呼応するよう要請した日。
更に1585年天正13年に〈本能寺の変
〉に端を発した〈天正壬午の乱
〉で、甲斐制圧をめぐって対陣が続いていた徳川と北条両氏が和睦に及び
信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉に対して、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉から上野〈沼田城〉一帯を、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉に引き渡しを要請された事を拒絶して
再び越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉へ接近し人質を要求されたことから…
〈真田昌幸〉は
次男〈真田信繁=真田幸村〉と重臣〈矢沢頼綱〉嫡男〈矢沢頼幸〉を、上杉方の北信濃〈海津城〉(現長野県長野市)将〈須田満親〉に人質として送り、ついで〈真田信繁〉達は〈春日山城〉にて〈上杉景勝〉に謁見してm(__)m人質としては破格の処遇の領地を拝領した日。
更に1587年天正15年に豊前〈城井谷城〉(現)主〈宇都宮鎮房=城井鎮房〉が、天下人〈関白=豊臣秀吉〉による、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐
に参陣した恩賞として
毛利家外交僧〈安国寺恵瓊〉を通じて、伊予〈今治〉への転封と〈宇都宮鎮房〉が所持する家宝〈藤原定家〉の「小倉色紙」の献上を命じられ
〈宇都宮鎮房〉は「城井谷は源頼朝公より拝領した先祖伝来の土地」だと命令を拒否して
激怒した
〈関白秀吉〉は〈今治〉12万石を没収してしまい
〈宇都宮鎮房〉は〈毛利勝信=毛利吉成〉に旧領安堵を〈関白秀吉〉に斡旋依頼しm(__)m〈毛利勝信〉の領地である田河郡〈赤郷〉へ移った日で〈赤郷=白土・柿原・成光〉三村を貸与して〈関白秀吉〉からの沙汰を待ったのだった…
〈関白秀吉〉は軍師〈黒田官兵衛孝高〉に〈城井谷城〉を与えるといった過酷な沙汰を下すのである…
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で5日弟〈太田氏房〉と共に〈織田信雄〉を介して豊臣家臣〈滝川雄利〉及び軍師〈黒田官兵衛孝高〉の陣を訪れ降服を申し出た〈北条氏直〉の父親〈北条氏政〉叔父〈北条氏照〉兄弟が〈小田原城〉を出て城下医師〈田村安栖〉邸に入った日。
更に1592年文禄元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉で、朝鮮水軍総帥〈李舜臣イースンシン〉率いる朝鮮水軍
が〈九鬼嘉隆くきよしたか〉〈加藤嘉明〉率いる日本水軍
を〈安骨浦の海戦
〉で再び撃退した日
更に1600年慶長5年に近江〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)で謹慎していた〈石田三成〉が、豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉率いる諸大名が、武蔵〈江戸城〉(現皇居)に集結している中、摂津〈大坂城〉下に居る諸大名の妻子を人質とする事を決定した日。
同じ日、一方〈内府家康〉率いる大軍を迎え討つ
陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉が、奥州への玄関〈白河口〉を守備する〈小峰城〉(現福島県白河市)将〈芋川正親〉〈平林正恒〉に迎撃態勢の普請を命じた日。
更に1612年慶長17年に美濃〈稲葉山城〉(現岐阜県岐阜市)主〈蝮=斎藤利政入道道三〉の娘で
「尾張の大うつけ」と噂された〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田上総介信長〉の正室〈帰蝶きちょう=濃姫〉が死去した命日享年78歳
美濃〈稲葉山城〉主〈蝮=斎藤道三〉の息女〈帰蝶=濃姫〉は1548年天文17年に14歳にして〈織田信秀〉(織田信長の父親)と〈斎籐道三〉の和睦同盟の証として〈織田信秀〉の嫡男〈織田三郎信長〉に嫁ぎ
正室となったが…
〈濃姫〉との間に子は生まれず、舅である〈斎藤道三〉が、嫡男〈斎藤新九郎高政=後の斎藤義竜〉と〈長良川の合戦
〉で戦い
敗死後、亡き舅〈斎藤道三〉の美濃譲り渡しの遺言状
に従って〈織田信長〉が、急死した〈一色新九郎高政=斎藤義竜=范可はんか〉の嫡男〈斎藤竜興〉を美濃から追放した後は、表に立つ事もなかったのだった…
〈織田信長〉には、二人目の正室〈吉乃きつの〉が居た為、織田家を去ったとも云われているが…その生涯は不明で1582年天正10年6月〈本能寺の変
〉で、夫信長の横死後は、〈吉乃〉の子である、次男〈織田信雄〉の庇護を受けながら尾張で暮らし、天寿をまっとうしたのだった
〈濃姫〉の死後〈織田信長〉の菩提を弔う、京都紫野〈大徳寺=総見院〉(現京都府京都市北区)の織田家墓所に夫信長と共に眠っている…
更に1615年元和元年に徳川幕府が、亡き〈太閤=豊臣秀吉〉の霊を祀る、京都東山〈豊国神社〉(現京都府京都市東山区)の破壊を命じた日

徳川幕府は1615年元和元年5月〈大坂夏の陣
〉で〈豊臣秀頼〉〈淀殿〉母子を滅ぼした後、天下人〈大御所=徳川家康〉は、朝廷が亡き〈太閤=豊臣秀吉〉に「豊国大明神」の神号を与え、豊臣家により築かれていた壮麗な社殿を誇る
亡き〈太閤秀吉〉の霊を祀る社殿の破壊を命じ

その御神体も北隣りの豊臣家の菩提寺〈方広寺〉の回廊の裏に晒され〈後陽成天皇ごようぜい〉から贈られた「豊国大明神」の神号も抹消したのだった…
その後徳川幕府は〈豊臣秀頼〉が建立した菩提寺〈方広寺〉の金銅の大仏も破壊させ、通貨「寛永通宝」に造り変えられたのだった…
こうして徳川幕府は、徹底的に豊臣家の痕跡を破壊し尽くして、亡き〈太閤秀吉〉の墓所も明治時代になるまで、監視の役人を配置して
墓所に近づく者を寄せ付けず
〈太閤秀吉〉の墓石の位置も、発掘されるまで不明で、幕末を迎えていくのであった…
よって件の如し
恐々謹言文月九日
太閤
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*) イヤッホーイ

どぉもどぉも



4回目の緊急事態宣言発令
マジすかー
イヤーン
感染回避でもないけど
今朝もセレブ出勤
まったく足の引っ張り合いばかりでロックダウン出来る法律も創らぬ無能な自民・公明両党に野党に官僚どもの責任で、いったい
いつまで自粛規制継続するネン
日本中の会社倒産したら法人税も所得税も消費税も取れなくナッシブルですろー

もそっと法制化整備しろや
よって件の如し

今日7月9日は1544年天文13年に大洪水が発生し


京都〈
鴨川
〉の〈四条大橋〉〈五条大橋〉〈貴船神社〉〈鞍馬寺大門〉〈黒谷坊〉等が流失した日
更に1549年天文18年に摂津〈越水城〉(現大阪府)主〈三好長慶〉が、摂津・山城の国衆を味方につけて〈細川高国〉の養子〈細川氏綱〉を擁して京都へ上洛した日
〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉〈管領=細川晴元〉との苛烈な長い戦いが始まるのだった…更に1573年元亀4年に天下統一を推し進める〈織田信長〉に対して
傀儡(かいらい)となることを嫌い
山城宇治〈槙島城〉(現京都府宇治市)で再び挙兵に及んだ〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉方の京都洛中〈二条御所〉(現京都府京都市上京区)を守備する幕臣〈三渕藤英みつぶちふじひで〉〈伊勢偵為〉〈高倉永相〉を攻めるべく
洛中〈妙覚寺〉に本陣を敷いた日
同じ日、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領職=山内上杉輝虎入道謙信〉が遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉や美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉に信濃・甲斐〈武田勝頼〉討伐のため出兵を促した日。
更に1574年天正2年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田勝頼〉が、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉方から寝返った〈高天神城〉(現静岡県掛川市)主〈小笠原長忠〉に武田家累代の諱(いみな)「信」の一字を与えられ〈小笠原信興〉と改名した日。
更に1582年天正10年に〈本能寺の変
〉に端を発した〈天正壬午の乱
〉で〈滝川一益〉を〈神流川の合戦
〉で撃退した
相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉が上野を手中にした上で、更に武田旧領信濃・甲斐をも制圧分国化すべく
〈碓氷峠うすいとうげ〉を越えて
信濃へ侵攻して来て
北条軍の圧迫に屈して
小県郡〈松尾城〉(現長野県上田市)主〈真田昌幸〉(真田幸村父親)が〈北条氏直〉に服属を申し出た日。同じ日、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉織田家家臣〈河尻秀隆〉が武田旧臣らの一揆に殺害され
主無き地となった甲斐を平定せんと駿河
中道往還から〈甲府〉右左宿口に着陣
次々に武田旧臣830人余りを帰服させ味方に引き入れた日。そして信濃へも出兵し
敵対する〈上杉景勝〉や〈北条氏直〉から織田家からの所領地を護るとして出兵したのだった
更に1583年天正11年に越中〈富山城〉(現富山県富山市)主〈佐々内蔵助成政〉が、亡き〈織田信長〉方に内応して、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉に謀叛した〈新発田城〉(現新潟県新発田市)主〈新発田重家〉に〈佐々成政〉自ら〈春日山城〉攻撃に出馬する為、共に相呼応するよう要請した日。
更に1585年天正13年に〈本能寺の変
〉に端を発した〈天正壬午の乱
〉で、甲斐制圧をめぐって対陣が続いていた徳川と北条両氏が和睦に及び
信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉に対して、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉から上野〈沼田城〉一帯を、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉に引き渡しを要請された事を拒絶して
再び越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉へ接近し人質を要求されたことから…〈真田昌幸〉は
次男〈真田信繁=真田幸村〉と重臣〈矢沢頼綱〉嫡男〈矢沢頼幸〉を、上杉方の北信濃〈海津城〉(現長野県長野市)将〈須田満親〉に人質として送り、ついで〈真田信繁〉達は〈春日山城〉にて〈上杉景勝〉に謁見してm(__)m人質としては破格の処遇の領地を拝領した日。更に1587年天正15年に豊前〈城井谷城〉(現)主〈宇都宮鎮房=城井鎮房〉が、天下人〈関白=豊臣秀吉〉による、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐
に参陣した恩賞として
毛利家外交僧〈安国寺恵瓊〉を通じて、伊予〈今治〉への転封と〈宇都宮鎮房〉が所持する家宝〈藤原定家〉の「小倉色紙」の献上を命じられ
〈宇都宮鎮房〉は「城井谷は源頼朝公より拝領した先祖伝来の土地」だと命令を拒否して
激怒した
〈関白秀吉〉は〈今治〉12万石を没収してしまい
〈宇都宮鎮房〉は〈毛利勝信=毛利吉成〉に旧領安堵を〈関白秀吉〉に斡旋依頼しm(__)m〈毛利勝信〉の領地である田河郡〈赤郷〉へ移った日で〈赤郷=白土・柿原・成光〉三村を貸与して〈関白秀吉〉からの沙汰を待ったのだった…
〈関白秀吉〉は軍師〈黒田官兵衛孝高〉に〈城井谷城〉を与えるといった過酷な沙汰を下すのである…
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で5日弟〈太田氏房〉と共に〈織田信雄〉を介して豊臣家臣〈滝川雄利〉及び軍師〈黒田官兵衛孝高〉の陣を訪れ降服を申し出た〈北条氏直〉の父親〈北条氏政〉叔父〈北条氏照〉兄弟が〈小田原城〉を出て城下医師〈田村安栖〉邸に入った日。更に1592年文禄元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉で、朝鮮水軍総帥〈李舜臣イースンシン〉率いる朝鮮水軍
が〈九鬼嘉隆くきよしたか〉〈加藤嘉明〉率いる日本水軍
を〈安骨浦の海戦
〉で再び撃退した日
更に1600年慶長5年に近江〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)で謹慎していた〈石田三成〉が、豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉率いる諸大名が、武蔵〈江戸城〉(現皇居)に集結している中、摂津〈大坂城〉下に居る諸大名の妻子を人質とする事を決定した日。
同じ日、一方〈内府家康〉率いる大軍を迎え討つ
陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉が、奥州への玄関〈白河口〉を守備する〈小峰城〉(現福島県白河市)将〈芋川正親〉〈平林正恒〉に迎撃態勢の普請を命じた日。更に1612年慶長17年に美濃〈稲葉山城〉(現岐阜県岐阜市)主〈蝮=斎藤利政入道道三〉の娘で
「尾張の大うつけ」と噂された〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田上総介信長〉の正室〈帰蝶きちょう=濃姫〉が死去した命日享年78歳
美濃〈稲葉山城〉主〈蝮=斎藤道三〉の息女〈帰蝶=濃姫〉は1548年天文17年に14歳にして〈織田信秀〉(織田信長の父親)と〈斎籐道三〉の和睦同盟の証として〈織田信秀〉の嫡男〈織田三郎信長〉に嫁ぎ
正室となったが…〈濃姫〉との間に子は生まれず、舅である〈斎藤道三〉が、嫡男〈斎藤新九郎高政=後の斎藤義竜〉と〈長良川の合戦
〉で戦い
敗死後、亡き舅〈斎藤道三〉の美濃譲り渡しの遺言状
に従って〈織田信長〉が、急死した〈一色新九郎高政=斎藤義竜=范可はんか〉の嫡男〈斎藤竜興〉を美濃から追放した後は、表に立つ事もなかったのだった…〈織田信長〉には、二人目の正室〈吉乃きつの〉が居た為、織田家を去ったとも云われているが…その生涯は不明で1582年天正10年6月〈本能寺の変
〉で、夫信長の横死後は、〈吉乃〉の子である、次男〈織田信雄〉の庇護を受けながら尾張で暮らし、天寿をまっとうしたのだった
〈濃姫〉の死後〈織田信長〉の菩提を弔う、京都紫野〈大徳寺=総見院〉(現京都府京都市北区)の織田家墓所に夫信長と共に眠っている…
更に1615年元和元年に徳川幕府が、亡き〈太閤=豊臣秀吉〉の霊を祀る、京都東山〈豊国神社〉(現京都府京都市東山区)の破壊を命じた日


徳川幕府は1615年元和元年5月〈大坂夏の陣
〉で〈豊臣秀頼〉〈淀殿〉母子を滅ぼした後、天下人〈大御所=徳川家康〉は、朝廷が亡き〈太閤=豊臣秀吉〉に「豊国大明神」の神号を与え、豊臣家により築かれていた壮麗な社殿を誇る
亡き〈太閤秀吉〉の霊を祀る社殿の破壊を命じ

その御神体も北隣りの豊臣家の菩提寺〈方広寺〉の回廊の裏に晒され〈後陽成天皇ごようぜい〉から贈られた「豊国大明神」の神号も抹消したのだった…
その後徳川幕府は〈豊臣秀頼〉が建立した菩提寺〈方広寺〉の金銅の大仏も破壊させ、通貨「寛永通宝」に造り変えられたのだった…
こうして徳川幕府は、徹底的に豊臣家の痕跡を破壊し尽くして、亡き〈太閤秀吉〉の墓所も明治時代になるまで、監視の役人を配置して
墓所に近づく者を寄せ付けず
〈太閤秀吉〉の墓石の位置も、発掘されるまで不明で、幕末を迎えていくのであった…よって件の如し

恐々謹言文月九日
太閤