ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す(*^∀^*)


イヤッホーイ!!


どぉもどぉもアップアップアップ


今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日も残業ナッシブルだったけど城内簡易鍛錬は休養したニコニコ

今日3月10日は1536年天文5年に〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉が京都東山〈南禅寺〉で〈菊幢丸=後の第13代将軍=足利義輝〉が誕生した日ケーキ

更に1546年天文15年に、後に「肥前の虎」と云われ、薩摩守護職〈島津義久〉と、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉と九州で三国志の様相を呈した、肥前〈佐賀城〉(現佐賀県佐賀市)主〈龍造寺隆信〉が、父親〈龍造寺家兼〉の死去により、龍造寺家の家督を継いだ日。


更に1549年天文18年に三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平広忠〉(徳川家康の父親)が家臣〈岩松八弥(蜂屋)〉に暗殺された日ショック!


更に1551年天文20年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉が〈河越の夜戦美容院〉以来凋落の一途だった〈関東菅領職=山内上杉憲政〉討伐の為、上野〈平井城〉(現群馬県藤岡市)に向け3万を率いて〈小田原城〉を出陣した日馬


更に1569年永禄12年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉が〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を擁立する、美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉に越後〈春日山城〉主〈関東菅領職=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉との和睦に向けた〈将軍義昭〉の「御内書」が発給されるよう働きかけを要請した日パー


更に1564年永禄7年に〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉が関東甲信越での、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領職=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉と、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信玄〉=相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉〈北条氏政〉父子との三つ巴の戦いの仲裁に失敗した日しょぼん


この頃関東甲信越では、上杉・武田・北条氏が三つ巴の攻防戦を繰り広げていて美容院一月には〈北条氏康〉〈北条氏政〉父子が下総へ進出して来た、安房〈久留里城〉(現千葉県君津市)主〈里見義弘〉=〈太田三楽斎資正おおたさんらくさいすけまさ〉連合軍と、再び〈第二次国府台の合戦美容院〉(現千葉県市川市)で戦って里見軍を討ち敗り美容院関東制覇に邁進していた…


一方〈関東菅領職=上杉輝虎〉は、北条方の常陸〈小田氏治〉を攻めて敗走させ走る人上杉方から北条氏に寝返った、下野〈唐沢山城〉(現栃木県佐野市)の〈佐野氏〉をも攻め立てたていたのだった美容院


そして北条氏と同盟を結ぶ〈武田信玄〉は宿敵〈上杉輝虎〉が、関東へ出陣中の留守をついてにひひ北信濃から越後を攻める気配をみせるというガーン〈上杉輝虎〉は越後へ撤退を余儀なくされガーン北条=武田に苦戦を強いられていたのだった…


こうして上杉軍が越後へ撤退すると、関東の諸大名達は、北条軍が関東各地へ侵攻して馬諸豪族達が、再び北条氏に寝返るといった…まるでシーソーゲームガーンの様相を繰り返していたのだった…ショック!


こうした三国美容院を仲裁するべく〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉は〈大覚寺〉門跡〈大覚寺義俊〉を、越後〈春日山城〉の〈上杉輝虎〉のもとに派遣して〈武田信玄〉=〈北条氏康〉との和睦を持ちかけたのだったがパー〈将軍義輝〉の骨折りは現実性が無くしょぼん和睦には至らず、夏には再び〈武田信玄〉と〈上杉輝虎〉が、北信濃〈善光寺平=川中島〉で〈第五回川中島の合戦美容院〉となってしまったのだったショック!


〈将軍義輝〉が熱心に、上杉・武田・北条の三国の和平に傾注したのは…武勇に優れた〈上杉輝虎〉を頼みとして、畿内で勢力を拡大させ、室町幕府の権威をも掌握している実力者、摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)〈飯盛山城〉(現大阪府四條畷市)主〈三好長慶〉と、その家老で大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾上少弼久秀〉らの追い落としを画策しての仲裁であったが…徒労に期してしまったのだった

更に1565年永禄8年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉家臣、信濃〈高遠城〉(現長野県伊那市)城代〈秋山虎繁(信友)〉が美濃〈高野口〉で〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉家臣〈森可成〉(森蘭丸の父)らと戦った日美容院


更に1573年元亀4年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉に降服開城して人質となっていた、三河〈野田城〉(現愛知県新城市)主〈菅沼定みつ〉が人質交換により、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉に解放された日。

更に1580年天正8年に天下統一を推し進める〈織田信長〉の近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)に、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉との対戦で苦戦を強いられていたガーン相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉の使者として〈笠原康昭〉と〈北条氏照〉の使者〈間宮綱信=後の間宮林蔵の祖〉〈原和泉守〉らが〈滝川一益〉の申次で〈佐久間信盛〉〈武井夕庵たけいせきあん〉により披露で〈織田信長〉が引見し〈北条氏政〉の織田家分国として許認可された日ニコニコ


更に甲斐〈新府城〉(現山梨県韮崎市)主〈武田勝頼〉が対立する相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉との対戦に、安房〈里見義頼〉が常陸〈太田城〉(現茨城常陸太田市)主〈佐竹義重〉らからの要請に応じて、駿河富士山への出兵に向け諸将の参陣を命じた日。


更に1582年天正10年に〈小山田信茂〉の裏切りにより〈天目山=田野〉へ逃れた〈武田勝頼〉が、織田軍との最終決戦に備えて高台に柵を構えた日。


同じ日〈徳川家康〉が甲斐市川大門に布陣して馬亡き〈武田信玄〉の異母弟〈一条信竜〉が守備する〈上野城〉(現山梨県西八代郡市川三郷町)を攻略し〈一条信竜〉が討死した日美容院


同じ日、織田軍が〈比叡山=延暦寺〉に続いて、紀伊〈高野山=金剛峯寺〉攻め美容院を開始して〈志富田荘寺尾砦〉を攻略した日美容院


更に1583年天正11年〈本能寺の変美容院〉後、混乱する信濃・甲斐・上野をめぐる〈天正壬午の乱美容院〉で、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉が信濃小県郡国衆〈松尾城〉(現長野県真田町)主〈真田昌幸〉に佐久郡・小県郡を平定すべく出陣する旨を伝え馬合わせて小県郡国衆〈室賀正武〉〈祢津昌綱〉が臣従してきた日

同じ日〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が弟〈羽柴秀長〉甥〈三好信吉=後の関白豊臣秀次〉〈筒井順慶〉〈蒲生氏郷〉らは率いて北伊勢に出陣した日馬


更に1584年天正12年に挙兵した尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信雄〉遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉連合軍と戦うべくプンプン〈羽柴秀吉〉が摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)を出陣した日馬

同じ日〈織田信雄〉は美濃〈大垣城〉(現岐阜県大垣市)主〈池田恒興入道勝入斎〉と〈金山城〉(現岐阜県可児市)主〈森長可〉らを味方にせんと誘う一方〈羽柴秀吉〉も同じく〈森長可〉には駿河富士山遠江をにひひ〈池田勝入斎〉には尾張・三河を恩賞に誘った日。


更に1600年慶長5年に薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津維新斎入道義弘〉嫡男〈島津忠恒=後の島津家久〉が〈伊集院忠棟〉を殺害した事で嫡子〈伊集院忠真〉が日向〈都城〉(現宮崎県都城市)で挙兵に及んだ〈庄内の乱美容院〉は、豊臣家大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉の調停を入れて〈山口直友〉が薩摩に下向し〈島津義久入道龍伯斎〉〈島津忠恒〉が〈伊集院忠真〉を許し〈島津龍伯〉が隠居している〈富隅城〉(現鹿児島県霧島市)に赴ちた日。


同じ日豊臣家五大老筆頭〈内府家康〉の使者として〈伊奈図書昭綱〉らが陸奥会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉のもとに赴き京都に上洛を勧告したが…〈上杉景勝〉は応じずしょぼん徹底的に使者を無視した日。

更に1612年慶長17年に紀伊〈高野山〉山麓〈九度山〉の〈善名祢院=真田庵〉で前年死去した〈真田安房守昌幸〉の一周忌を済ませ家臣は信濃に帰国し、16名のうち〈高梨内記〉〈青柳清庵〉が〈九度山〉の〈真田信繁=真田幸村〉と共に残った日。


更に1614年慶長19年に亡き〈太閤=豊臣秀吉〉の嫡男〈豊臣秀頼〉の側近〈大野治長〉が、徳川幕府との来たるべき決戦に備えて、越中〈富山城〉(現富山県富山市)主で、隠居していた元豊臣家大老〈前田利長〉に、豊臣方への参陣を要請した日パー


〈前田利長〉は、亡き父親〈加賀大納言=前田利家〉の正室で、母親〈まつ=芳春院〉を人質として〈江戸〉へ差し出し〈二代将軍=徳川秀忠〉の息女を嫡男〈前田利常〉の正室に迎えて、徳川家と前田家は既に姻戚関係となっていた為〈前田利長〉にとってショック!豊臣方の要請は、大変迷惑であった…


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言弥生十日
太閤
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