俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日は残業ナッシブルだったから
帰還して体育館GYM鍛錬に出陣
まづは肩三角筋鍛錬ケーブルサイドレイズ20㌔負荷左右
各3setづつ各計60回づつ+25㌔負荷左右
各2setづつ各計20回づつ+僧帽筋・肩三角筋鍛錬30㌔負荷1set計30回+40㌔負荷1set計30回+50㌔負荷1set計20回+60㌔負荷1set計10回+70㌔負荷1set計10回
+肩三角筋後部鍛錬ダンベルリアレイズ14㌔負荷5set計100回+ラスト肩三角筋前部鍛錬ダンベルフロントレイズ㌔負荷3set計30回鍛錬仕り申したぜィ
p(^^)q
今日12月22日は1572年元亀3年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信玄〉が遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉を〈三方ヶ原の合戦
〉で撃破した日。
天下統一を推し進める〈織田信長〉の傀儡(かいらい)政権となる事に嫌う
〈室町幕府第代将軍=足利義昭〉は
諸大名に秘かに〈織田信長〉討伐を要請し
〈武田信玄〉にも挙兵を促していたが…
ついに〈武田信玄〉は
二万
の軍勢を率いて〈甲府〉を出陣し
これまで武田軍の進軍ルートは
南信濃伊那谷→〈青崩峠あおがれとうげ〉を通過して、遠江〈犬居城〉へと向かったとされていた従来の説が改められて
伊那谷へは、武田軍の武将〈山県昌景〉〈秋山虎繁(信友)〉ら別動隊が
遠江〈青崩峠〉へと侵攻し
一方〈武田信玄〉本隊
は〈甲府〉→駿河
→〈
大井川
〉を渡河し、徳川方の難攻不落の要害、遠江〈高天神城〉(現静岡県掛川市)を攻めたが
…城攻め
を中止して〈袋井〉→〈見附〉→〈
天竜川
〉沿いを北上し
〈合代島〉(現静岡県磐田市)へ進軍
此に〈青崩峠〉を越えて、三河へ侵攻して来た〈山県昌景〉〈秋山虎繁(信友)〉隊
らが武田本隊と合流し
〈二俣城〉(現静岡県天竜市)攻撃
を開始し〈
天竜川
〉の上陸から筏(いかだ)を流して、城内の水の供給源である、釣瓶に激突させて
破壊
釣瓶により水を確保していた城方は
水の手を絶たれて降伏したのだった。
出城〈二俣城〉を失った〈徳川家康〉は
盟友〈織田信長〉に至急の援軍を要請したが
〈将軍義昭〉の画策による「織田包囲網」により、頼みの〈織田信長〉は〈朝倉義景〉=〈浅井長政〉〈六角承禎〉〈三好三人衆〉〈石山本願寺〉〈雑賀党〉〈松永弾正久秀〉らと交戦中
で「四面楚歌しめんそか」(四方を敵に包囲され窮している)の状態の為
盟友〈徳川家康〉に援軍を送る余裕は無かったのだった…
それでも〈織田信長〉は
僅かに重臣〈佐久間信盛〉〈滝川一益〉〈平手汎秀〉以下3000
の援軍を〈浜松城〉へと差し向けたのがやっとの事であった
一方〈武田信玄〉は25000
の大軍を率いて〈徳川家康〉の本拠、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)へと迫り
〈徳川家康〉は〈浜松城〉に籠城の構えで、武田軍来襲を待ち構えていたが…
しかし武田軍
は〈浜松城〉を目前に〈徳川家康〉を無視して素通りし〈浜松城〉の北〈三方原みかたがはら〉台地へと向かい
三河目指して通過した為
〈徳川家康〉は
この武田軍の傍若無人な行軍に怒り
このまま武田勢に抵抗もせず通過させれば、遠江や奥三河の豪族衆は、徳川を見限って
武田方に寝返りかねず
更には嫡男〈松平信康〉が守備する、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)も、織田からの援軍が分断されて危うくなり
遠江で孤立無援となってしまうと判断し
8000
に織田援軍を加え11000
を率いて〈浜松城〉を出陣して
武田勢が〈三方原〉台地の〈祝田ほうだ〉の坂を降りるところを、後方から急襲
せんとしたが
しかし!百戦錬磨の歴戦の勇将〈武田信玄〉は、その〈三方ヶ原〉の〈根洗いの松〉付近で、突如反転「魚鱗ぎょりん」の陣形で、徳川=織田連合軍を待ち構えての陽動作戦であった…
驚いた徳川軍は
直ちに「鶴翼かくよく」の陣形で、武田勢に対し
夕刻16時過ぎ戦闘が開始され
武田軍前衛〈小山田信繁〉隊
3000の内、農民の次男・三男300人程で構成される〈水股者みずまたもの〉が、縄の先端に小石を結んで振り回す投石攻撃で、戦端が開かれ
徳川方〈石川数正〉隊1200が、総大将〈徳川家康〉の命令を待たず、抜け駆け
して武田勢に突撃
〈小山田信繁〉隊は、石川隊
に押されて敗走したかに見えたが…
それを武田軍〈山県昌景〉隊
が援護し、その山県隊
に、徳川軍〈本多平八郎忠勝〉〈大須賀康高〉隊が突撃
その山県隊
を援護すべく、武田軍〈馬場信春〉隊が突撃
両軍入り乱れて激しい〈三方ヶ原の合戦
〉は〈武田信玄〉が〈内藤昌豊〉〈武田信豊〉隊
の新手を突入させ
後退していた小山田隊
も態勢を立て直して戻り
これに徳川軍〈榊原康政〉〈大久保忠世〉〈小笠原長忠〉らが攻撃
小山田隊
は再び後退を余儀なくされ、一進一退を繰り返していたが…
〈武田信玄〉四男〈武田勝頼〉が前進
押し出して来るに至り、徳川軍は崩れ出し
多勢に無勢
信玄の巧みな戦術に翻弄され
織田援軍〈佐久間信盛〉隊らが、相次いで戦線離脱
〈平手汎秀ひらてひろひで〉が討死し
徳川勢も総崩れとなり
総大将〈徳川家康〉の身代りとなり〈夏目正吉〉が討死する
大敗をきし
家康は命からがら〈浜松城〉へと逃げ帰ったのだった

この時〈徳川家康〉は
恐怖のあまり馬上
で糞を漏らしたと伝えられ
なんとか〈浜松城〉に帰還した家康は
自らの無謀極まる戦いと、敗戦の惨めさを戒める意味で
絵師を呼んで自らを画かせ、生涯座右の銘としたのだった
追撃して来た武田軍は〈浜松城〉の城門が開け放たれ、篝火をコウコウと焚き、太鼓を打ち続けていた状態を
徳川方の計略だとしてを追撃を中止したのだった
更に1597年慶長2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命により
開始された〈朝鮮出兵=慶長の役
〉で、朝鮮半島に渡った日本軍は、朝鮮の義勇兵によるゲリラ戦と〈李舜臣イースンシン〉率いる朝鮮水軍や〈明朝〉(中国)からの援軍
を得て勢力を盛り返し、日本軍は苦戦を強いられ
次第に朝鮮半島南端に追い詰められ
〈蔚山城ウルサンじょう〉に拠る〈加藤清正〉〈浅野幸長〉軍が、明=朝鮮連合軍七万余に包囲され、兵糧責めにされ
水の手を切られ
包囲された日
元〈加藤清正〉家中であった〈沙也可さやか〉(朝鮮名=金忠善)が、朝鮮に投降し
朝鮮軍兵になっていたが…明朝との和睦を仲介すると申し入れて来たが〈浅野幸長〉が拒絶したのだった

よって件の如し
恐々謹言師走二十二日
太閤





参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*) イヤッホーイ

どぉもどぉも



今朝もセレブ出勤
昨日は残業ナッシブルだったから
帰還して体育館GYM鍛錬に出陣
まづは肩三角筋鍛錬ケーブルサイドレイズ20㌔負荷左右
各3setづつ各計60回づつ+25㌔負荷左右
各2setづつ各計20回づつ+僧帽筋・肩三角筋鍛錬30㌔負荷1set計30回+40㌔負荷1set計30回+50㌔負荷1set計20回+60㌔負荷1set計10回+70㌔負荷1set計10回+肩三角筋後部鍛錬ダンベルリアレイズ14㌔負荷5set計100回+ラスト肩三角筋前部鍛錬ダンベルフロントレイズ㌔負荷3set計30回鍛錬仕り申したぜィ
p(^^)q 今日12月22日は1572年元亀3年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信玄〉が遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉を〈三方ヶ原の合戦
〉で撃破した日。天下統一を推し進める〈織田信長〉の傀儡(かいらい)政権となる事に嫌う
〈室町幕府第代将軍=足利義昭〉は
諸大名に秘かに〈織田信長〉討伐を要請し
〈武田信玄〉にも挙兵を促していたが…ついに〈武田信玄〉は
二万
の軍勢を率いて〈甲府〉を出陣し
これまで武田軍の進軍ルートは
南信濃伊那谷→〈青崩峠あおがれとうげ〉を通過して、遠江〈犬居城〉へと向かったとされていた従来の説が改められて
伊那谷へは、武田軍の武将〈山県昌景〉〈秋山虎繁(信友)〉ら別動隊が
遠江〈青崩峠〉へと侵攻し
一方〈武田信玄〉本隊
は〈甲府〉→駿河
→〈
大井川
〉を渡河し、徳川方の難攻不落の要害、遠江〈高天神城〉(現静岡県掛川市)を攻めたが
…城攻め
を中止して〈袋井〉→〈見附〉→〈
天竜川
〉沿いを北上し
〈合代島〉(現静岡県磐田市)へ進軍
此に〈青崩峠〉を越えて、三河へ侵攻して来た〈山県昌景〉〈秋山虎繁(信友)〉隊
らが武田本隊と合流し
〈二俣城〉(現静岡県天竜市)攻撃
を開始し〈
天竜川
〉の上陸から筏(いかだ)を流して、城内の水の供給源である、釣瓶に激突させて
破壊
釣瓶により水を確保していた城方は
水の手を絶たれて降伏したのだった。出城〈二俣城〉を失った〈徳川家康〉は
盟友〈織田信長〉に至急の援軍を要請したが
〈将軍義昭〉の画策による「織田包囲網」により、頼みの〈織田信長〉は〈朝倉義景〉=〈浅井長政〉〈六角承禎〉〈三好三人衆〉〈石山本願寺〉〈雑賀党〉〈松永弾正久秀〉らと交戦中
で「四面楚歌しめんそか」(四方を敵に包囲され窮している)の状態の為
盟友〈徳川家康〉に援軍を送る余裕は無かったのだった…それでも〈織田信長〉は
僅かに重臣〈佐久間信盛〉〈滝川一益〉〈平手汎秀〉以下3000
の援軍を〈浜松城〉へと差し向けたのがやっとの事であった
一方〈武田信玄〉は25000
の大軍を率いて〈徳川家康〉の本拠、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)へと迫り
〈徳川家康〉は〈浜松城〉に籠城の構えで、武田軍来襲を待ち構えていたが…しかし武田軍
は〈浜松城〉を目前に〈徳川家康〉を無視して素通りし〈浜松城〉の北〈三方原みかたがはら〉台地へと向かい
三河目指して通過した為
〈徳川家康〉は
この武田軍の傍若無人な行軍に怒り
このまま武田勢に抵抗もせず通過させれば、遠江や奥三河の豪族衆は、徳川を見限って
武田方に寝返りかねず
更には嫡男〈松平信康〉が守備する、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)も、織田からの援軍が分断されて危うくなり
遠江で孤立無援となってしまうと判断し
8000
に織田援軍を加え11000
を率いて〈浜松城〉を出陣して
武田勢が〈三方原〉台地の〈祝田ほうだ〉の坂を降りるところを、後方から急襲
せんとしたが
しかし!百戦錬磨の歴戦の勇将〈武田信玄〉は、その〈三方ヶ原〉の〈根洗いの松〉付近で、突如反転「魚鱗ぎょりん」の陣形で、徳川=織田連合軍を待ち構えての陽動作戦であった…
驚いた徳川軍は
直ちに「鶴翼かくよく」の陣形で、武田勢に対し
夕刻16時過ぎ戦闘が開始され
武田軍前衛〈小山田信繁〉隊
3000の内、農民の次男・三男300人程で構成される〈水股者みずまたもの〉が、縄の先端に小石を結んで振り回す投石攻撃で、戦端が開かれ
徳川方〈石川数正〉隊1200が、総大将〈徳川家康〉の命令を待たず、抜け駆け

して武田勢に突撃
〈小山田信繁〉隊は、石川隊
に押されて敗走したかに見えたが…それを武田軍〈山県昌景〉隊
が援護し、その山県隊
に、徳川軍〈本多平八郎忠勝〉〈大須賀康高〉隊が突撃
その山県隊
を援護すべく、武田軍〈馬場信春〉隊が突撃
両軍入り乱れて激しい〈三方ヶ原の合戦
〉は〈武田信玄〉が〈内藤昌豊〉〈武田信豊〉隊
の新手を突入させ
後退していた小山田隊
も態勢を立て直して戻り
これに徳川軍〈榊原康政〉〈大久保忠世〉〈小笠原長忠〉らが攻撃
小山田隊
は再び後退を余儀なくされ、一進一退を繰り返していたが…〈武田信玄〉四男〈武田勝頼〉が前進
押し出して来るに至り、徳川軍は崩れ出し
多勢に無勢
信玄の巧みな戦術に翻弄され
織田援軍〈佐久間信盛〉隊らが、相次いで戦線離脱
〈平手汎秀ひらてひろひで〉が討死し
徳川勢も総崩れとなり
総大将〈徳川家康〉の身代りとなり〈夏目正吉〉が討死する
大敗をきし
家康は命からがら〈浜松城〉へと逃げ帰ったのだった

この時〈徳川家康〉は
恐怖のあまり馬上
で糞を漏らしたと伝えられ
なんとか〈浜松城〉に帰還した家康は
自らの無謀極まる戦いと、敗戦の惨めさを戒める意味で
絵師を呼んで自らを画かせ、生涯座右の銘としたのだった
追撃して来た武田軍は〈浜松城〉の城門が開け放たれ、篝火をコウコウと焚き、太鼓を打ち続けていた状態を
徳川方の計略だとしてを追撃を中止したのだった更に1597年慶長2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命により
開始された〈朝鮮出兵=慶長の役
〉で、朝鮮半島に渡った日本軍は、朝鮮の義勇兵によるゲリラ戦と〈李舜臣イースンシン〉率いる朝鮮水軍や〈明朝〉(中国)からの援軍
を得て勢力を盛り返し、日本軍は苦戦を強いられ
次第に朝鮮半島南端に追い詰められ
〈蔚山城ウルサンじょう〉に拠る〈加藤清正〉〈浅野幸長〉軍が、明=朝鮮連合軍七万余に包囲され、兵糧責めにされ
水の手を切られ
包囲された日
元〈加藤清正〉家中であった〈沙也可さやか〉(朝鮮名=金忠善)が、朝鮮に投降し
朝鮮軍兵になっていたが…明朝との和睦を仲介すると申し入れて来たが〈浅野幸長〉が拒絶したのだった

よって件の如し

恐々謹言師走二十二日
太閤




