俺参上
ハイッハ~イッ
みんなに笑顔をッ太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも
今朝もセレブ出勤今日は十代からの盟友〈イケメン進上上総介〉が我が会社に入社して参る人生で三度同じ職場で働く事にナッシブル腐れ縁ですろー
昨日は残業だったから体育館GYMに出陣は、間に合わず帰還しても鍛錬時間もナッシブルで鍛錬断念したが、間もなく駅前にエニタイムフィットネスがオープンするらC
体育館GYMからエニタイムに切り替えるか…
今日10月29日は1563年永禄6年に中国地方安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉の嫡男〈毛利隆元〉が8月備後〈南天山城〉(現広島県三次市)主〈和智誠春〉の〈佐々部〉の陣所に招かれ、饗応を受けて宴を終え〈蓮華寺〉の本陣に帰る途中、急に腹痛を訴えて翌朝容態が急変して急死したのだった
その時、出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈尼子義久〉方の〈秋鹿城〉攻め中の〈毛利元就〉の元に〈毛利隆元〉急死の注進がもたらされ嫡男〈毛利隆元〉急死に絶望した〈毛利元就〉は、深い悲しみを堪えて毛利家中が結束して、毛利全軍を叱咤し隆元の弔い合戦を指揮し尼子方防衛線最大の拠点〈白鹿城〉(現島根県松江市)を包囲して夜陰に乗じて総攻撃を命じたのだった
毛利軍は、尼子方〈牛尾久清〉に手傷を負わせ、出城〈小白鹿城〉を奪取したが〈白鹿城〉本丸は〈松田誠保〉らが頑強に抵抗し毛利軍随一の猛将で〈毛利元就〉の次男〈吉川元春〉は、尚も本丸攻撃を主張したが〈毛利元就〉が総攻撃中止を命じた
この毛利軍に対して、出雲〈富田月山城〉主〈尼子義久〉は、弟〈尼子倫久〉〈尼子秀久〉〈熊野久忠〉ら3万数千を擁して〈白鹿城〉援軍に軍勢を率いて出陣して毛利軍の兵站線を脅かし、更に〈尼子倫久〉を大将に〈亀井秀綱〉〈牛尾幸清〉〈立原久綱〉〈山中鹿ノ介幸盛〉ら一万余を〈白鹿城〉救援に派兵したのだった
この為〈毛利元就〉は三男〈小早川隆景〉娘婿〈熊谷信直〉や〈益田藤兼〉らを〈白鹿城〉への押さえとして、尼子軍の攻勢に耐え、攻めあぐねた尼子方が、後退するを追撃して尼子勢は本拠地〈富田月山城〉へと敗走し尼子方最終防衛線〈白鹿城〉が降伏した日m(__)m
更に1582年天正10年6月2日天下統一を目前にしていた〈織田信長〉が京都〈本能寺の変〉で家臣〈明智光秀〉の謀叛により横死にすると…旧武田の甲斐・信濃は混乱状態となり、隣国相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉〈北条氏直〉父子や越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉や遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉らの三つ巴の争奪戦となっていった…
武蔵〈神流川の合戦〉で織田家重臣〈滝川一益〉を討ち敗った〈北条氏直〉の大軍は滝川軍を追撃して〈碓氷峠うすいとうげ〉を越えて信濃に進攻すると小県・佐久両郡の国衆が続々北条方となり、北信濃に進攻して来た〈上杉景勝〉と戦う為〈善光寺平=川中島〉へ進軍した〈北条氏直〉は〈上杉景勝〉と対峙したが…
〈海津城〉(現長野県長野市)将〈春日信達〉(武田家重臣=高坂弾正昌信の嫡男)が北条方への内応が露見した為〈川中島〉での対陣が長引くかに思われたが…
一方、甲斐では武田家旧臣らの一揆が勃発して織田家重臣〈河尻秀隆〉が討たれ駿河から進軍して来た〈徳川家康〉が甲斐を併合すると共に「徳川四天王」の〈酒井忠次〉率いる別動隊が、遠江から南信濃伊那郡を併合しながら〈諏訪〉へと侵攻したが〈高島城〉(現長野県諏訪市)主〈諏訪頼忠〉が〈酒井忠次〉の高飛車な態度に激怒し〈北条氏直〉に援軍を要請した為〈北条氏直〉は〈川中島〉を撤退し〈諏訪〉に向けて南進し〈上杉景勝〉も越後国内の〈新発田城〉(現新潟県新発田市)主〈新発田重家〉謀叛鎮圧の為帰国したのだった。
筑摩郡では、かつて〈武田信玄〉により越後に追われた〈前信濃守護職小笠原長時〉の子〈小笠原貞慶〉が〈徳川家康〉から派遣されていたが…〈上杉景勝〉も〈小笠原長時〉の弟〈小笠原洞雲斎〉を派遣して、小笠原旧臣の取り込みが開始されていたが…〈高島城〉攻めの為〈諏訪〉に布陣していた〈酒井忠次〉は〈北条氏直〉が南進の注進を受けて甲斐に後退して〈徳川家康〉と合流したのだった
〈徳川家康〉は〈新府城跡〉(現山梨県韮崎市)で、南下して来た〈北条氏直〉の大軍と対陣する事になったが北条方となっていた〈真田昌幸〉が〈徳川家康〉に寝返り北条軍への上野からの補給路を遮断(しゃだん)した〈北条氏直〉に一方〈小田原城〉の留守居である隠居〈北条氏政〉は〈北条氏直〉と共に、徳川軍を挟み討つべく甲斐に〈北条氏忠〉駿河に〈北条氏規〉らを派兵したが…徳川家臣〈鳥居元忠〉が〈北条氏忠〉を迎撃して撃退した為更なる窮地に至った為〈北条氏政〉から〈徳川家康〉に和睦が打診され甲斐・信濃は徳川に上野支配は北条にと〈北条氏直〉に〈徳川家康〉の次女〈督姫〉嫁入りする事で和睦が成立した日。
しかし…この徳川=北条の和睦に〈真田昌幸〉が意を唱え後の〈沼田問題〉→〈小田原征伐〉になっていくのであった…
よって件の如し
恐々謹言神無月二十九日太閤
ハイッハ~イッ
みんなに笑顔をッ太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも
今朝もセレブ出勤今日は十代からの盟友〈イケメン進上上総介〉が我が会社に入社して参る人生で三度同じ職場で働く事にナッシブル腐れ縁ですろー
昨日は残業だったから体育館GYMに出陣は、間に合わず帰還しても鍛錬時間もナッシブルで鍛錬断念したが、間もなく駅前にエニタイムフィットネスがオープンするらC
体育館GYMからエニタイムに切り替えるか…
今日10月29日は1563年永禄6年に中国地方安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉の嫡男〈毛利隆元〉が8月備後〈南天山城〉(現広島県三次市)主〈和智誠春〉の〈佐々部〉の陣所に招かれ、饗応を受けて宴を終え〈蓮華寺〉の本陣に帰る途中、急に腹痛を訴えて翌朝容態が急変して急死したのだった
その時、出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈尼子義久〉方の〈秋鹿城〉攻め中の〈毛利元就〉の元に〈毛利隆元〉急死の注進がもたらされ嫡男〈毛利隆元〉急死に絶望した〈毛利元就〉は、深い悲しみを堪えて毛利家中が結束して、毛利全軍を叱咤し隆元の弔い合戦を指揮し尼子方防衛線最大の拠点〈白鹿城〉(現島根県松江市)を包囲して夜陰に乗じて総攻撃を命じたのだった
毛利軍は、尼子方〈牛尾久清〉に手傷を負わせ、出城〈小白鹿城〉を奪取したが〈白鹿城〉本丸は〈松田誠保〉らが頑強に抵抗し毛利軍随一の猛将で〈毛利元就〉の次男〈吉川元春〉は、尚も本丸攻撃を主張したが〈毛利元就〉が総攻撃中止を命じた
この毛利軍に対して、出雲〈富田月山城〉主〈尼子義久〉は、弟〈尼子倫久〉〈尼子秀久〉〈熊野久忠〉ら3万数千を擁して〈白鹿城〉援軍に軍勢を率いて出陣して毛利軍の兵站線を脅かし、更に〈尼子倫久〉を大将に〈亀井秀綱〉〈牛尾幸清〉〈立原久綱〉〈山中鹿ノ介幸盛〉ら一万余を〈白鹿城〉救援に派兵したのだった
この為〈毛利元就〉は三男〈小早川隆景〉娘婿〈熊谷信直〉や〈益田藤兼〉らを〈白鹿城〉への押さえとして、尼子軍の攻勢に耐え、攻めあぐねた尼子方が、後退するを追撃して尼子勢は本拠地〈富田月山城〉へと敗走し尼子方最終防衛線〈白鹿城〉が降伏した日m(__)m
更に1582年天正10年6月2日天下統一を目前にしていた〈織田信長〉が京都〈本能寺の変〉で家臣〈明智光秀〉の謀叛により横死にすると…旧武田の甲斐・信濃は混乱状態となり、隣国相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉〈北条氏直〉父子や越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉や遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉らの三つ巴の争奪戦となっていった…
武蔵〈神流川の合戦〉で織田家重臣〈滝川一益〉を討ち敗った〈北条氏直〉の大軍は滝川軍を追撃して〈碓氷峠うすいとうげ〉を越えて信濃に進攻すると小県・佐久両郡の国衆が続々北条方となり、北信濃に進攻して来た〈上杉景勝〉と戦う為〈善光寺平=川中島〉へ進軍した〈北条氏直〉は〈上杉景勝〉と対峙したが…
〈海津城〉(現長野県長野市)将〈春日信達〉(武田家重臣=高坂弾正昌信の嫡男)が北条方への内応が露見した為〈川中島〉での対陣が長引くかに思われたが…
一方、甲斐では武田家旧臣らの一揆が勃発して織田家重臣〈河尻秀隆〉が討たれ駿河から進軍して来た〈徳川家康〉が甲斐を併合すると共に「徳川四天王」の〈酒井忠次〉率いる別動隊が、遠江から南信濃伊那郡を併合しながら〈諏訪〉へと侵攻したが〈高島城〉(現長野県諏訪市)主〈諏訪頼忠〉が〈酒井忠次〉の高飛車な態度に激怒し〈北条氏直〉に援軍を要請した為〈北条氏直〉は〈川中島〉を撤退し〈諏訪〉に向けて南進し〈上杉景勝〉も越後国内の〈新発田城〉(現新潟県新発田市)主〈新発田重家〉謀叛鎮圧の為帰国したのだった。
筑摩郡では、かつて〈武田信玄〉により越後に追われた〈前信濃守護職小笠原長時〉の子〈小笠原貞慶〉が〈徳川家康〉から派遣されていたが…〈上杉景勝〉も〈小笠原長時〉の弟〈小笠原洞雲斎〉を派遣して、小笠原旧臣の取り込みが開始されていたが…〈高島城〉攻めの為〈諏訪〉に布陣していた〈酒井忠次〉は〈北条氏直〉が南進の注進を受けて甲斐に後退して〈徳川家康〉と合流したのだった
〈徳川家康〉は〈新府城跡〉(現山梨県韮崎市)で、南下して来た〈北条氏直〉の大軍と対陣する事になったが北条方となっていた〈真田昌幸〉が〈徳川家康〉に寝返り北条軍への上野からの補給路を遮断(しゃだん)した〈北条氏直〉に一方〈小田原城〉の留守居である隠居〈北条氏政〉は〈北条氏直〉と共に、徳川軍を挟み討つべく甲斐に〈北条氏忠〉駿河に〈北条氏規〉らを派兵したが…徳川家臣〈鳥居元忠〉が〈北条氏忠〉を迎撃して撃退した為更なる窮地に至った為〈北条氏政〉から〈徳川家康〉に和睦が打診され甲斐・信濃は徳川に上野支配は北条にと〈北条氏直〉に〈徳川家康〉の次女〈督姫〉嫁入りする事で和睦が成立した日。
しかし…この徳川=北条の和睦に〈真田昌幸〉が意を唱え後の〈沼田問題〉→〈小田原征伐〉になっていくのであった…
よって件の如し
恐々謹言神無月二十九日太閤