俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今日は公休日だから
ムッチャ蒸し暑い
カンカン照り
ん中を何だ神田まで大学教授の講義受講に行くぜ
行くぜ
行くぜィ
ンで…
昨日も残業ナッシブルだったから20時までしか時間ナッシブルの40分間体育館GYM鍛錬に出陣
まづは広背筋・大円筋鍛錬フロントプルダウン57㌔負荷5set計60回+リバースラットプルダウン57㌔負荷5set計60回+バックプルダウン57㌔負荷6set計60回+ラスト再び広背筋・大円筋鍛錬マシンシーテッドロー30㌔負荷2set計40回+42㌔負荷2set計20回鍛錬仕り申したぜィ
p(^^)q
早く通常体制に戻らんかナァ
鍛錬時間ナッシブルですろー
今日8月29日は1560年永禄3年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉により、上野〈平井城〉(現群馬県藤岡市)を追われた〈関東菅領職=山内上杉憲政〉が、仇敵〈北条氏康〉討伐を、再三再四要請して、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が〈関東菅領職=山内上杉憲政〉を擁して〈三国峠〉を越えて関東へ出陣
上野〈厩橋城〉(現群馬県前橋市)に入城した日
そして〈長尾景虎〉は関東の諸将に、北条討伐の参陣を要請
〈長尾景虎〉は、関東出陣の前から、常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義昭〉〈佐竹義重〉父子や、安房〈久留里城〉(現千葉県君津市)主〈里見義尭〉〈里見義弘〉父子ら関東の大小名から、再三北条討伐の為、関東越山を要請されていたのだった…
その為〈厩橋城〉には、関東の諸大名が続々登城して、房総半島に出陣して
安房の〈里見義尭〉〈里見義弘〉父子と戦っていた〈北条氏康〉は急遽反転して
武蔵への転戦を迫られ
本拠相模〈小田原城〉へ撤退して
籠城戦の準備を命じるのであった…
更に1561年永禄4年に前年関東へ出陣して
相模〈北条氏康〉の本拠〈小田原城〉攻め
から、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)に帰還した〈関東菅領=上杉政虎=後の上杉謙信〉は〈北条氏康〉と同盟を結ぶ、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信玄〉を討伐すべく
従兄弟の〈坂戸城〉(現新潟県)主〈長尾政景〉に〈武田信玄〉の煽動によって蜂起した、越中の〈本願寺門徒衆=一向一揆〉への備えを堅める様に命じてから
四度目の信濃〈善光寺平=川中島〉へ出陣して
〈
犀川
〉〈
千曲川
〉を渡河して〈妻女山さいじょさん〉(現長野県長野市)に布陣した〈関東菅領職=上杉政虎=後の上杉謙信〉に対し
一方、甲斐から出陣して来た〈武田信玄〉は〈川中島〉西方の〈茶臼山ちゃうすやま〉(現長野県長野市)に布陣して、上杉軍と対峙していたが…
上杉軍を警戒しながら8月29日武田軍が、軍師〈山本勘助入道道鬼〉が縄張りして築城した〈海津城〉(現長野県長野市松代)に入城した日
〈武田信玄〉は〈妻女山〉の上杉軍と対峙し、武田・上杉両軍睨み合いとなったのであった…
更に1566年永禄9年に大和奈良の〈興福寺=一乗院〉(現奈良県奈良市)を〈細川藤孝〉〈和田惟政〉〈明智光秀〉らの手引きで〈松永久秀〉〈松永久通〉父子の監視から逃れた
〈一乗院覚慶=後に足利義秋=後の足利義昭〉が、近江〈甲賀〉の〈和田城〉(現滋賀県甲賀)に匿われた後、近江〈守山御所〉(現滋賀県守山市)に在って、南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角義賢入道承禎ろっかくよしかたにゅうどうじょうてい〉に支援・助力を求めたが…
〈六角承禎〉は〈足利義秋〉の兄である〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉を襲撃殺害し〈室町幕府第14代将軍=足利義栄〉を擁立し出した〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉らとの同盟へと、方針を転換させていった為
危険を感じ〈守山御所〉を脱出して
〈
琵琶湖
〉を舟で北上し、再び庇護してくれる大名を求めて、若狭へと向かった日
更に1579年天正7年に遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉が、天下統一を推し進める同盟国〈織田信長〉から、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉(武田信玄四男)に内通したという疑いで
妻子を殺害する様
命じられた〈徳川家康〉は
嫡男〈松平信康〉を救いたい一心で
苦渋の選択を決断し
正室〈瀬名=築山御前〉の殺害を、家臣〈野中重政〉に命じ
〈浜松城〉に程近い〈富塚〉(現静岡県浜松市)で〈築山御前〉を殺害した日
この〈徳川家康〉正室〈築山御前〉は1560年永禄3年〈桶狭間の合戦
〉で〈織田信長〉に討ち取られた、駿河
遠江・三河の大守〈今川義元〉の姪で…織田家は今川家にとって、仇敵の関係であり
この時点で、甲斐・信濃・西上野・駿河
の〈武田勝頼〉も〈長篠設楽ヶ原の合戦
〉で、織田軍に大敗を期しており〈徳川家康〉は〈織田信長〉との同盟関係を維持する事でしか、徳川家の存続が危ういと判断して
正室〈築山御前〉の殺害と
嫡男〈松平信康〉を〈二俣城〉(現静岡県)に、幽閉を命じたのであった…
しかし三河=尾張国境には、織田軍が展開し
〈徳川家康〉の妻子殺害の顛末次第では、織田軍が徳川領国三河へと、侵攻の構えをみせているのであった
よって件の如し
恐々謹言葉月二十九日
太閤


参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*) イヤッホーイ

どぉもどぉも



今日は公休日だから
ムッチャ蒸し暑い
カンカン照り
ん中を何だ神田まで大学教授の講義受講に行くぜ
行くぜ
行くぜィ
ンで…
昨日も残業ナッシブルだったから20時までしか時間ナッシブルの40分間体育館GYM鍛錬に出陣
まづは広背筋・大円筋鍛錬フロントプルダウン57㌔負荷5set計60回+リバースラットプルダウン57㌔負荷5set計60回+バックプルダウン57㌔負荷6set計60回+ラスト再び広背筋・大円筋鍛錬マシンシーテッドロー30㌔負荷2set計40回+42㌔負荷2set計20回鍛錬仕り申したぜィ
p(^^)q早く通常体制に戻らんかナァ
鍛錬時間ナッシブルですろー
今日8月29日は1560年永禄3年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉により、上野〈平井城〉(現群馬県藤岡市)を追われた〈関東菅領職=山内上杉憲政〉が、仇敵〈北条氏康〉討伐を、再三再四要請して、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が〈関東菅領職=山内上杉憲政〉を擁して〈三国峠〉を越えて関東へ出陣

上野〈厩橋城〉(現群馬県前橋市)に入城した日
そして〈長尾景虎〉は関東の諸将に、北条討伐の参陣を要請
〈長尾景虎〉は、関東出陣の前から、常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義昭〉〈佐竹義重〉父子や、安房〈久留里城〉(現千葉県君津市)主〈里見義尭〉〈里見義弘〉父子ら関東の大小名から、再三北条討伐の為、関東越山を要請されていたのだった…その為〈厩橋城〉には、関東の諸大名が続々登城して、房総半島に出陣して
安房の〈里見義尭〉〈里見義弘〉父子と戦っていた〈北条氏康〉は急遽反転して
武蔵への転戦を迫られ
本拠相模〈小田原城〉へ撤退して
籠城戦の準備を命じるのであった…更に1561年永禄4年に前年関東へ出陣して
相模〈北条氏康〉の本拠〈小田原城〉攻め
から、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)に帰還した〈関東菅領=上杉政虎=後の上杉謙信〉は〈北条氏康〉と同盟を結ぶ、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信玄〉を討伐すべく
従兄弟の〈坂戸城〉(現新潟県)主〈長尾政景〉に〈武田信玄〉の煽動によって蜂起した、越中の〈本願寺門徒衆=一向一揆〉への備えを堅める様に命じてから
四度目の信濃〈善光寺平=川中島〉へ出陣して
〈
犀川
〉〈
千曲川
〉を渡河して〈妻女山さいじょさん〉(現長野県長野市)に布陣した〈関東菅領職=上杉政虎=後の上杉謙信〉に対し一方、甲斐から出陣して来た〈武田信玄〉は〈川中島〉西方の〈茶臼山ちゃうすやま〉(現長野県長野市)に布陣して、上杉軍と対峙していたが…
上杉軍を警戒しながら8月29日武田軍が、軍師〈山本勘助入道道鬼〉が縄張りして築城した〈海津城〉(現長野県長野市松代)に入城した日

〈武田信玄〉は〈妻女山〉の上杉軍と対峙し、武田・上杉両軍睨み合いとなったのであった…
更に1566年永禄9年に大和奈良の〈興福寺=一乗院〉(現奈良県奈良市)を〈細川藤孝〉〈和田惟政〉〈明智光秀〉らの手引きで〈松永久秀〉〈松永久通〉父子の監視から逃れた

〈一乗院覚慶=後に足利義秋=後の足利義昭〉が、近江〈甲賀〉の〈和田城〉(現滋賀県甲賀)に匿われた後、近江〈守山御所〉(現滋賀県守山市)に在って、南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角義賢入道承禎ろっかくよしかたにゅうどうじょうてい〉に支援・助力を求めたが…〈六角承禎〉は〈足利義秋〉の兄である〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉を襲撃殺害し〈室町幕府第14代将軍=足利義栄〉を擁立し出した〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉らとの同盟へと、方針を転換させていった為
危険を感じ〈守山御所〉を脱出して
〈
琵琶湖
〉を舟で北上し、再び庇護してくれる大名を求めて、若狭へと向かった日更に1579年天正7年に遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉が、天下統一を推し進める同盟国〈織田信長〉から、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉(武田信玄四男)に内通したという疑いで
妻子を殺害する様
命じられた〈徳川家康〉は
嫡男〈松平信康〉を救いたい一心で
苦渋の選択を決断し
正室〈瀬名=築山御前〉の殺害を、家臣〈野中重政〉に命じ
〈浜松城〉に程近い〈富塚〉(現静岡県浜松市)で〈築山御前〉を殺害した日
この〈徳川家康〉正室〈築山御前〉は1560年永禄3年〈桶狭間の合戦
〉で〈織田信長〉に討ち取られた、駿河
遠江・三河の大守〈今川義元〉の姪で…織田家は今川家にとって、仇敵の関係であり
この時点で、甲斐・信濃・西上野・駿河
の〈武田勝頼〉も〈長篠設楽ヶ原の合戦
〉で、織田軍に大敗を期しており〈徳川家康〉は〈織田信長〉との同盟関係を維持する事でしか、徳川家の存続が危ういと判断して
正室〈築山御前〉の殺害と
嫡男〈松平信康〉を〈二俣城〉(現静岡県)に、幽閉を命じたのであった…しかし三河=尾張国境には、織田軍が展開し

〈徳川家康〉の妻子殺害の顛末次第では、織田軍が徳川領国三河へと、侵攻の構えをみせているのであった
よって件の如し

恐々謹言葉月二十九日
太閤

