俺参上
ハイッハ~イッ
みんなに笑顔をッ太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも
今朝もセレブ出勤残業ナッシブルだが明日ゴルフ接待で江戸表前泊だべさ
昨日横浜山下公園近くの交差点に、差し掛かった時、いきなり警察官に制止されて信号無視だって切符きられちった赤信号だった記憶ナッシブルだし矢印←出てなかったに体育館GYM鍛錬に出陣
今日12月13日は1568年永禄11年に甲斐の〈武田信玄〉が、駿河に侵攻し〈今川氏真〉(今川義元の嫡男)の〈駿府城〉(現静岡県静岡市)を奪取した日
甲斐の〈武田信玄〉は、宿敵である越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉輝虎=上杉謙信〉との信濃をめぐる闘いに苦戦を強いられいつ終わるとも果てしない長期戦になっていた…
そこへ1560年永禄3年5月、同盟国駿河遠江・三河の大守〈今川義元〉が、尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉と〈桶狭間の合戦〉で戦い討死してしまって以降大国今川氏は、急速に衰えをみせはじめ
すると〈武田信玄〉は、駿河の海と〈安倍金山〉等に目をつけ駿河攻めを意図し出したが…亡き〈今川義元〉の息女〈嶺松院〉を嫁にしていた、嫡男〈武田太郎義信〉が、父親〈信玄〉に駿河攻めを反対した為〈武田信玄〉は、嫡男〈武田義信〉を〈甲府〉〈東光寺〉に幽閉したが〈太郎義信〉が自害してしまった為〈太郎義信〉正室で〈今川氏真〉の妹を駿河に送り帰して、武田=今川の同盟関係は手切れとなり…
〈今川氏真〉は〈駿甲相三国同盟和〉を結んでいた相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)の舅〈北条氏康〉に要請して武田領=甲斐・信濃・西上野への〈塩止め=経済制裁〉で対抗したが…
〈武田信玄〉は、駿河攻めにあたり、強敵〈上杉輝虎〉への備えとして、義弟にあたる、摂津大坂〈石山本願寺〉に要請して、越中へ〈一向一揆=本願寺門徒衆〉の決起と、上杉家家臣越後〈村上城〉主〈本庄繁長〉を寝返らせて〈上杉輝虎〉を牽制し、更に三河の〈徳川家康〉と謀り〈今川氏真〉を挟み討つべく〈武田信玄〉は駿河を〈徳川家康〉は遠江を攻める密約を締結したのだった
〈上杉輝虎〉が動けない積雪を待って1568年永禄11年12月6日ついに駿河に侵攻〈由比〉に布陣し一方〈今川氏真〉も〈興津〉〈清見寺〉(現静岡県清水区)に本陣を敷いて武田軍と〈薩捶峠さったとうげ〉を挟んで対峙し、相模〈小田原城〉の〈北条氏康〉に援軍を要請して、武田軍を挟み討つ策だった。
〈薩捶峠〉は「東海の親不知」と呼ばれた難所で、反り立った絶壁の眼下には駿河湾が迫っていた…
〈薩捶山〉の今川軍は〈庵原安房守忠胤〉を先手の大将に12日戦端が開かれる計画であったが…今川方〈瀬名〉〈朝比奈〉〈葛山〉〈三浦〉の各隊が〈薩捶山〉の陣所を放棄し峠を下って撤退してしまい今川軍は戦意喪失武田軍は戦わずして、東海一の難所を突破〈駿府城〉へと迫り
味方の裏切りで〈駿府城〉での籠城戦が困難と判断した〈今川氏真〉は北条軍の援軍到達を待てず、重臣〈朝比奈備中守泰朝〉が守備する、遠江〈掛川城〉(現静岡県掛川市)へと逃亡し大混乱の中で〈今川氏真〉正室(北条氏康息女)は、履き物も得られず裸足で逃げたのだった舅〈北条氏康〉は激怒し駿河へ水陸から北条軍を進攻させた日。
更に1570年元亀元年に天下統一を推し進める〈織田信長〉が朝廷の「勅命ちょくめい」(天皇の命令)と〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉の仲介で〈朝倉義景〉=〈浅井長政〉連合軍と和睦した日で〈織田信長〉は盟友〈徳川家康〉と共に同年6月に越前の〈朝倉義景〉から派兵された〈朝倉景健〉=〈浅井長政〉連合軍と北近江〈姉川の合戦〉で激突朝倉・浅井連合軍を撃破していたが…
一方畿内には〈三好三人衆〉が四国阿波から巻き返しを図って摂津に上陸し、三好方と交戦中〈石山本願寺〉(現大阪城)が、信長を「仏敵」として挙兵に及び全国の〈本願寺門徒衆=一向一揆衆〉に決起を号令した為織田軍は紀伊〈雑賀党〉〈根来寺〉伊勢〈長島一向一揆〉等も敵にまわす事になった…
手薄な背後の近江には〈朝倉義景〉=〈浅井長政〉連合軍が京の都に迫り〈山科〉(現京都市山科区)にまで侵攻したこの朝倉=浅井連合軍の侵攻に驚いた信長は摂津での〈三好三人衆〉との交戦を中止して京都へ取って返した為〈朝倉義景〉=〈浅井長政〉連合軍は〈比叡山〉山麓〈壺笠山〉(現滋賀県大津市)に逃れ〈比叡山=延暦寺〉がこれを匿まった為
信長は〈延暦寺〉に対して朝倉=浅井両軍の引き渡しか不介入を要求したが〈延暦寺〉側は此に応じず、朝倉=浅井連合軍と三ヶ月も対峙が続き困った信長は〈将軍=足利義昭〉を介して朝廷に奏請し〈正親町天皇おうぎまち〉からの「勅命」をもって和議を進めた〈朝倉義景〉は北陸に迫る大雪を懸念していた為12月13日両軍の和睦が成り両軍は軍勢をおさめた
しかし信長の怒りは激しく和睦が形ばかりのもので年明けには近江ー越前間の交通を遮断し秋には朝倉=浅井を匿った〈比叡山=延暦寺〉を焼き討ちにするのであった…
よって件の如し
恐々謹言皐月十三日
太閤
ハイッハ~イッ
みんなに笑顔をッ太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
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昨日横浜山下公園近くの交差点に、差し掛かった時、いきなり警察官に制止されて信号無視だって切符きられちった赤信号だった記憶ナッシブルだし矢印←出てなかったに体育館GYM鍛錬に出陣
今日12月13日は1568年永禄11年に甲斐の〈武田信玄〉が、駿河に侵攻し〈今川氏真〉(今川義元の嫡男)の〈駿府城〉(現静岡県静岡市)を奪取した日
甲斐の〈武田信玄〉は、宿敵である越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉輝虎=上杉謙信〉との信濃をめぐる闘いに苦戦を強いられいつ終わるとも果てしない長期戦になっていた…
そこへ1560年永禄3年5月、同盟国駿河遠江・三河の大守〈今川義元〉が、尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉と〈桶狭間の合戦〉で戦い討死してしまって以降大国今川氏は、急速に衰えをみせはじめ
すると〈武田信玄〉は、駿河の海と〈安倍金山〉等に目をつけ駿河攻めを意図し出したが…亡き〈今川義元〉の息女〈嶺松院〉を嫁にしていた、嫡男〈武田太郎義信〉が、父親〈信玄〉に駿河攻めを反対した為〈武田信玄〉は、嫡男〈武田義信〉を〈甲府〉〈東光寺〉に幽閉したが〈太郎義信〉が自害してしまった為〈太郎義信〉正室で〈今川氏真〉の妹を駿河に送り帰して、武田=今川の同盟関係は手切れとなり…
〈今川氏真〉は〈駿甲相三国同盟和〉を結んでいた相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)の舅〈北条氏康〉に要請して武田領=甲斐・信濃・西上野への〈塩止め=経済制裁〉で対抗したが…
〈武田信玄〉は、駿河攻めにあたり、強敵〈上杉輝虎〉への備えとして、義弟にあたる、摂津大坂〈石山本願寺〉に要請して、越中へ〈一向一揆=本願寺門徒衆〉の決起と、上杉家家臣越後〈村上城〉主〈本庄繁長〉を寝返らせて〈上杉輝虎〉を牽制し、更に三河の〈徳川家康〉と謀り〈今川氏真〉を挟み討つべく〈武田信玄〉は駿河を〈徳川家康〉は遠江を攻める密約を締結したのだった
〈上杉輝虎〉が動けない積雪を待って1568年永禄11年12月6日ついに駿河に侵攻〈由比〉に布陣し一方〈今川氏真〉も〈興津〉〈清見寺〉(現静岡県清水区)に本陣を敷いて武田軍と〈薩捶峠さったとうげ〉を挟んで対峙し、相模〈小田原城〉の〈北条氏康〉に援軍を要請して、武田軍を挟み討つ策だった。
〈薩捶峠〉は「東海の親不知」と呼ばれた難所で、反り立った絶壁の眼下には駿河湾が迫っていた…
〈薩捶山〉の今川軍は〈庵原安房守忠胤〉を先手の大将に12日戦端が開かれる計画であったが…今川方〈瀬名〉〈朝比奈〉〈葛山〉〈三浦〉の各隊が〈薩捶山〉の陣所を放棄し峠を下って撤退してしまい今川軍は戦意喪失武田軍は戦わずして、東海一の難所を突破〈駿府城〉へと迫り
味方の裏切りで〈駿府城〉での籠城戦が困難と判断した〈今川氏真〉は北条軍の援軍到達を待てず、重臣〈朝比奈備中守泰朝〉が守備する、遠江〈掛川城〉(現静岡県掛川市)へと逃亡し大混乱の中で〈今川氏真〉正室(北条氏康息女)は、履き物も得られず裸足で逃げたのだった舅〈北条氏康〉は激怒し駿河へ水陸から北条軍を進攻させた日。
更に1570年元亀元年に天下統一を推し進める〈織田信長〉が朝廷の「勅命ちょくめい」(天皇の命令)と〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉の仲介で〈朝倉義景〉=〈浅井長政〉連合軍と和睦した日で〈織田信長〉は盟友〈徳川家康〉と共に同年6月に越前の〈朝倉義景〉から派兵された〈朝倉景健〉=〈浅井長政〉連合軍と北近江〈姉川の合戦〉で激突朝倉・浅井連合軍を撃破していたが…
一方畿内には〈三好三人衆〉が四国阿波から巻き返しを図って摂津に上陸し、三好方と交戦中〈石山本願寺〉(現大阪城)が、信長を「仏敵」として挙兵に及び全国の〈本願寺門徒衆=一向一揆衆〉に決起を号令した為織田軍は紀伊〈雑賀党〉〈根来寺〉伊勢〈長島一向一揆〉等も敵にまわす事になった…
手薄な背後の近江には〈朝倉義景〉=〈浅井長政〉連合軍が京の都に迫り〈山科〉(現京都市山科区)にまで侵攻したこの朝倉=浅井連合軍の侵攻に驚いた信長は摂津での〈三好三人衆〉との交戦を中止して京都へ取って返した為〈朝倉義景〉=〈浅井長政〉連合軍は〈比叡山〉山麓〈壺笠山〉(現滋賀県大津市)に逃れ〈比叡山=延暦寺〉がこれを匿まった為
信長は〈延暦寺〉に対して朝倉=浅井両軍の引き渡しか不介入を要求したが〈延暦寺〉側は此に応じず、朝倉=浅井連合軍と三ヶ月も対峙が続き困った信長は〈将軍=足利義昭〉を介して朝廷に奏請し〈正親町天皇おうぎまち〉からの「勅命」をもって和議を進めた〈朝倉義景〉は北陸に迫る大雪を懸念していた為12月13日両軍の和睦が成り両軍は軍勢をおさめた
しかし信長の怒りは激しく和睦が形ばかりのもので年明けには近江ー越前間の交通を遮断し秋には朝倉=浅井を匿った〈比叡山=延暦寺〉を焼き討ちにするのであった…
よって件の如し
恐々謹言皐月十三日
太閤