俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今日もセレブ出勤であったが、雨
ん中
遠路厚木まで出陣し
夕方に池袋までだったから
残業決定的なれば、到底体育館GYM鍛錬には、間に合わず
明日も(土)ゴルフ
接待で江戸表前泊であろうから…今週は1度もGYM鍛錬出来ぬ
今日7月4日は1564年永禄7年に〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉〈第13代将軍=足利義輝〉父子を、近江に追い
朝廷の〈正親町天皇おうぎまち〉からの信任も受け
室町幕府「菅領」職以上の権力を有し
畿内一円を支配していた戦国大名〈三好長慶〉が、河内〈飯盛山城〉(現大阪府四條畷市)で死去した命日で享年43歳
…
〈三好長慶〉は〈織田信長〉よりも先んじて
家柄・身分を問わず家臣を抜擢・重用すると共に
形骸化していた、古き室町幕府を否定し
将軍不在が長引き
時の〈後奈良天皇〉は「天文」から「永禄」への元号改元に伴い〈将軍義輝〉を差し置いて〈三好長慶〉に相談する程の権勢を誇り
摂津・山城・丹波・河内・阿波・讃岐へと勢力を拡大支配していたが…
嫡男〈三好義興〉が急死後
一門の結束は乱れ
以降三好家は、養子〈三好義継〉が家督を継承したが…〈三好長慶〉という巨星を失い
同族〈松永弾上少弼久秀〉と〈三好宗渭〉〈三好長逸〉〈岩成友通〉ら〈三好三人衆〉が対立
主導権争いが続いて
三好家は衰退凋落
の一途を辿り…
やがて〈足利義昭〉を奉じて、尾張・美濃・北伊勢・近江の大軍を率いて上洛して来た〈織田信長〉により、三好一族は畿内から放逐されていくのだった…
更に1589年天正17年に天下統一を推し進める天下人〈関白=豊臣秀吉〉は、今だ臣下の礼を取りに京都に上洛して来ない
関東・奥羽の諸大名に対して「関東奥羽惣武事令」を公布して、諸大名間の私戦
禁止
を命じたが…
出羽〈米沢城〉(現山形県米沢市)主〈独眼竜=伊達政宗〉は、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)の〈北条氏政〉〈北条氏直〉父子と同盟を結んで
敵対する
南陸奥会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主〈芦名義広〉を支援する、常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義重〉=〈佐竹義宣〉父子と戦い
「惣武事令」に違反して〈芦名義広〉を攻め滅ぼしたのだった。
これに激怒した

〈関白秀吉〉は、伊達氏の隣国越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉と、常陸の〈佐竹義宣〉に〈伊達政宗〉討伐を命じた日

しかし奥羽の覇者〈独眼竜=伊達政宗〉は
相模の〈北条氏政〉=〈北条氏直〉父子や〈関白秀吉〉の義弟〈駿河大納言=徳川家康〉らと、三国同盟関係にあり、一筋縄でいかない容易ならざる戦国大名であった…
更に1609年慶長14年に天下人〈大御所=徳川家康〉が〈後陽成天皇ごようぜい〉の女官と、公卿衆の乱行が目に余るとして
裁断した日
数年前から京の朝廷では、女官や公家衆らの、不義密通(不倫
)や乱行が、目立ち出していた…
当時、朝廷きっての美男=イケメンとの評判だった〈左近衛少将=猪熊教利いのくまのりとし〉と、宮中に仕える女官の不義密通
(不倫
)が起きて、二年後、今度は〈参議=烏丸光広からすまみつひろ〉〈大炊御門頼国おおいみかどよりくに〉〈飛鳥井雅賢あすかいまさかた〉〈花山院忠長かざんいんただなが〉〈徳大寺実久〉〈中御門宗信なかみかどむねのぶ〉〈難波宗勝〉ら、七人の若い公家衆が〈後陽成天皇〉の側室である〈典侍=広橋局てんじひろはしのつぼね〉〈権典侍=中院局〉〈掌侍=水無瀬しょうじみなせ〉〈唐橋局からはしのつぼね〉〈命婦讃岐みょうぶさぬき〉ら、五人の女官らと不義密通
していた事が発覚
したのだった
この事で、心痛続きの〈後陽成天皇〉が、徳川幕府〈京都所司代=板倉勝重〉を通じて、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)に隠居している〈大御所=徳川家康〉に処分を委任した為
〈大御所家康〉は
公家〈烏丸光広〉と〈徳大寺実久〉を赦免とし
五人の女官達を伊豆新島へと流罪に処したのだった
不義密通
を犯した女官らを死罪としたかった〈後陽成天皇〉には
この〈大御所家康〉の裁定に強い不満を抱いたが…
この朝廷の不義密通事件を機に、朝廷は様々な問題に徳川幕府の介入を余儀なくされる事となり…
やがて徳川幕府は「禁中並公家諸法度」として
朝廷を監視統制していく事になるのだった…
よって件の如し
恐々謹言文月四日
太閤

参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今日もセレブ出勤であったが、雨
ん中
遠路厚木まで出陣し
夕方に池袋までだったから
残業決定的なれば、到底体育館GYM鍛錬には、間に合わず
明日も(土)ゴルフ
接待で江戸表前泊であろうから…今週は1度もGYM鍛錬出来ぬ
今日7月4日は1564年永禄7年に〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉〈第13代将軍=足利義輝〉父子を、近江に追い
朝廷の〈正親町天皇おうぎまち〉からの信任も受け
室町幕府「菅領」職以上の権力を有し
畿内一円を支配していた戦国大名〈三好長慶〉が、河内〈飯盛山城〉(現大阪府四條畷市)で死去した命日で享年43歳
…〈三好長慶〉は〈織田信長〉よりも先んじて
家柄・身分を問わず家臣を抜擢・重用すると共に
形骸化していた、古き室町幕府を否定し
将軍不在が長引き
時の〈後奈良天皇〉は「天文」から「永禄」への元号改元に伴い〈将軍義輝〉を差し置いて〈三好長慶〉に相談する程の権勢を誇り
摂津・山城・丹波・河内・阿波・讃岐へと勢力を拡大支配していたが…嫡男〈三好義興〉が急死後
一門の結束は乱れ
以降三好家は、養子〈三好義継〉が家督を継承したが…〈三好長慶〉という巨星を失い
同族〈松永弾上少弼久秀〉と〈三好宗渭〉〈三好長逸〉〈岩成友通〉ら〈三好三人衆〉が対立
主導権争いが続いて
三好家は衰退凋落
の一途を辿り…やがて〈足利義昭〉を奉じて、尾張・美濃・北伊勢・近江の大軍を率いて上洛して来た〈織田信長〉により、三好一族は畿内から放逐されていくのだった…
更に1589年天正17年に天下統一を推し進める天下人〈関白=豊臣秀吉〉は、今だ臣下の礼を取りに京都に上洛して来ない
関東・奥羽の諸大名に対して「関東奥羽惣武事令」を公布して、諸大名間の私戦
禁止
を命じたが…出羽〈米沢城〉(現山形県米沢市)主〈独眼竜=伊達政宗〉は、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)の〈北条氏政〉〈北条氏直〉父子と同盟を結んで
敵対する
南陸奥会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主〈芦名義広〉を支援する、常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義重〉=〈佐竹義宣〉父子と戦い
「惣武事令」に違反して〈芦名義広〉を攻め滅ぼしたのだった。これに激怒した


〈関白秀吉〉は、伊達氏の隣国越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉と、常陸の〈佐竹義宣〉に〈伊達政宗〉討伐を命じた日

しかし奥羽の覇者〈独眼竜=伊達政宗〉は
相模の〈北条氏政〉=〈北条氏直〉父子や〈関白秀吉〉の義弟〈駿河大納言=徳川家康〉らと、三国同盟関係にあり、一筋縄でいかない容易ならざる戦国大名であった…更に1609年慶長14年に天下人〈大御所=徳川家康〉が〈後陽成天皇ごようぜい〉の女官と、公卿衆の乱行が目に余るとして
裁断した日
数年前から京の朝廷では、女官や公家衆らの、不義密通(不倫
)や乱行が、目立ち出していた…
当時、朝廷きっての美男=イケメンとの評判だった〈左近衛少将=猪熊教利いのくまのりとし〉と、宮中に仕える女官の不義密通
(不倫
)が起きて、二年後、今度は〈参議=烏丸光広からすまみつひろ〉〈大炊御門頼国おおいみかどよりくに〉〈飛鳥井雅賢あすかいまさかた〉〈花山院忠長かざんいんただなが〉〈徳大寺実久〉〈中御門宗信なかみかどむねのぶ〉〈難波宗勝〉ら、七人の若い公家衆が〈後陽成天皇〉の側室である〈典侍=広橋局てんじひろはしのつぼね〉〈権典侍=中院局〉〈掌侍=水無瀬しょうじみなせ〉〈唐橋局からはしのつぼね〉〈命婦讃岐みょうぶさぬき〉ら、五人の女官らと不義密通
していた事が発覚
したのだった
この事で、心痛続きの〈後陽成天皇〉が、徳川幕府〈京都所司代=板倉勝重〉を通じて、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)に隠居している〈大御所=徳川家康〉に処分を委任した為
〈大御所家康〉は
公家〈烏丸光広〉と〈徳大寺実久〉を赦免とし
五人の女官達を伊豆新島へと流罪に処したのだった
不義密通
を犯した女官らを死罪としたかった〈後陽成天皇〉には
この〈大御所家康〉の裁定に強い不満を抱いたが…この朝廷の不義密通事件を機に、朝廷は様々な問題に徳川幕府の介入を余儀なくされる事となり…
やがて徳川幕府は「禁中並公家諸法度」として
朝廷を監視統制していく事になるのだった…よって件の如し

恐々謹言文月四日
太閤
