俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


平成最後の
今日も空いてる通勤電車
で
大型連休中なるも出勤登城仕り申したが、少しだけ仕事して午前中で終了
今上天皇陛下の200年振りの御退任で、本日江戸城周辺一帯規制最初から最後までクライマックスだぜィ
したが、早くに帰還出来たから
また盟友〈イケメンむー王子〉を銀座sixに奇襲仕り申し、新型monster献上仕り申して
日比谷公園で先輩と御茶して
盟友〈イケメン元取締役大和☆桜王子〉のたこ焼「たこ王子」に出陣致そうかと思うたが…また〈イケメン桜王子〉は、開店遅刻なれば
さすがに午前中から待つには時間有り過ぎて
致し方ナッシブル
帰還仕り申した。
体育館GYM鍛錬に出陣
背筋鍛錬仕り申したぜィ
今日4月30日は1553年天文22年に尾張〈清州城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉と、舅にあたる美濃〈稲葉山城〉(現岐阜県岐阜市)主〈蝮=斎籐道三〉が、尾張〈富田とんだ〉の〈聖徳寺〉で、初対面して、攻守同盟を結んだ日。
尾張国内では「うつけ者」と云われて〈織田信長〉は、身嗜みも乱れて、素行悪く、家臣領民達からもバカにされていて…尾張国内を統一出来ていなかった〈織田信長〉に、正室〈帰蝶きちょう=濃姫のうひめ〉の父親である、悪名高い〈蝮=斎籐道三〉から、舅と婿の初対面を申し入れてきていた…
舅〈斎籐道三〉は「うつけ者」と噂される娘婿を、一目見ようと〈織田信長〉に、美濃と尾張の国境〈富田〉の〈聖徳寺〉での会見を求めたが…これは〈蝮=道三〉の謀略で
〈織田信長〉の身嗜みの無礼を咎めて
無礼討ちにして、直ちに尾張を奪取せんと画策していたのだった…
しかし!いざ〈聖徳寺〉の会見場に現れた娘娘信長は、正装で折り目正しく
舅道三をたしなめ
〈斎藤道三〉の方が〈織田信長〉の奥底に秘めた器量と、武将としての行く末、可能性に感服してしまった〈斎藤道三〉は
「いづれ我が子や孫達は、信長の前に馬の轡(くつわ)を繋ぐであろう!」と我が子〈斎籐新九郎義竜〉以上に、娘婿信長を高く買って
駿河
の〈今川義元〉が、大軍で押し寄せて来たときは、援軍を送ると約定したのであった

ここに〈織田信長〉は〈蝮〉と恐れられた〈斎藤道三〉という、頼もしき後ろ楯を得る事になり、当面の強大な敵、駿河
の〈今川義元〉に対抗する事が出来る様になったのだったが…
更に1570年元亀元年に天下統一を推し進める〈織田信長〉が、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主、盟友〈徳川家康〉と共に、越前〈一乗谷城〉主〈朝倉義景〉方の〈手筒山城〉〈金ヶ崎城〉(現福井県敦賀市)を攻撃中に
妹婿の北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井長政〉の突然の離反に遭い
越前から京都に、全軍撤退していった日



美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉は、自らが擁立した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉の名のもとに
諸大名に京の都に上洛して、朝廷と室町幕府への臣下の礼を命じたが
越前〈一乗谷城〉主〈朝倉義景〉は、再三の上洛要請に従わず
密かに〈将軍義昭〉と結んで、反織田包囲網に加担していたのだった…
そして〈織田信長〉は同盟国〈徳川家康〉や従ったばかりの大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾上〉ら総勢30000
の大軍を率いて越前へ進撃4月25日朝倉方の〈手筒山城〉〈金ヶ崎城〉を相次いで攻め落とし
〈朝倉義景〉を追い詰めたが…
妹〈お市〉の妹婿であり
〈将軍足利義昭〉を擁して京都へ上洛戦では進んで味方した、同盟国北近江〈小谷城〉主〈浅井長政〉が、父親〈浅井久政〉の強い、織田家への不振と朝倉家との三代にわたる、朝倉=浅井同盟に重きをおいて
突如織田方を裏切り、朝倉方の味方に寝返り
朝倉方を攻撃中の織田軍を背後から、朝倉軍と挟み討たんとしていた…
この時、夫〈浅井長政〉の裏切りを知った〈お市の方〉は
兄である信長に秘かに知らせるべく〈お市〉は、信長への「陣中見舞い」と称して、小豆入りの袋の両端を紐で縛って、使者の者に持参させ、暗に伝えたとされ…
それを〈織田信長〉が察して
朝倉軍と背後から迫る
浅井軍に挟み討たれると判断し
即座に全軍を京都へ撤退させると即断した

そして〈織田信長〉は家臣〈木下藤吉郎秀吉=後の豊臣秀吉〉に「殿軍しんがり」を命じて
直ちに10騎ばかりの手勢を率いて越前〈金ヶ崎城〉の戦線を離脱し
浅井領の〈
琵琶湖
〉東岸を避けて西岸から〈朽木谷くつきだに〉から京都へと命からがら
逃走
していったのだった…
一方〈金ヶ崎城〉の陣で押し寄せて来る
朝倉軍を迎え討ちながら、軍勢を撤退していく難しい役目である「殿軍しんがり」を引き受けた〈木下藤吉郎秀吉=後の豊臣秀吉〉は、朝倉勢を苦戦しながら迎撃しつつ撤退していったが…撤退を留まっていた〈明智光秀〉と〈徳川家康〉の援軍を得て「殿軍」を努めあげたのであった…
京都に無事撤退した〈織田信長〉の裏切った義弟〈浅井長政〉への怒り

は凄まじく後に熾烈な激戦を展開していくのであった…
よって件の如し
恐々謹言卯月三十日
太閤


参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



平成最後の
今日も空いてる通勤電車
で
大型連休中なるも出勤登城仕り申したが、少しだけ仕事して午前中で終了
今上天皇陛下の200年振りの御退任で、本日江戸城周辺一帯規制最初から最後までクライマックスだぜィ

したが、早くに帰還出来たから
また盟友〈イケメンむー王子〉を銀座sixに奇襲仕り申し、新型monster献上仕り申して
日比谷公園で先輩と御茶して
盟友〈イケメン元取締役大和☆桜王子〉のたこ焼「たこ王子」に出陣致そうかと思うたが…また〈イケメン桜王子〉は、開店遅刻なれば
さすがに午前中から待つには時間有り過ぎて
致し方ナッシブル
帰還仕り申した。体育館GYM鍛錬に出陣
背筋鍛錬仕り申したぜィ
今日4月30日は1553年天文22年に尾張〈清州城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉と、舅にあたる美濃〈稲葉山城〉(現岐阜県岐阜市)主〈蝮=斎籐道三〉が、尾張〈富田とんだ〉の〈聖徳寺〉で、初対面して、攻守同盟を結んだ日。
尾張国内では「うつけ者」と云われて〈織田信長〉は、身嗜みも乱れて、素行悪く、家臣領民達からもバカにされていて…尾張国内を統一出来ていなかった〈織田信長〉に、正室〈帰蝶きちょう=濃姫のうひめ〉の父親である、悪名高い〈蝮=斎籐道三〉から、舅と婿の初対面を申し入れてきていた…
舅〈斎籐道三〉は「うつけ者」と噂される娘婿を、一目見ようと〈織田信長〉に、美濃と尾張の国境〈富田〉の〈聖徳寺〉での会見を求めたが…これは〈蝮=道三〉の謀略で
〈織田信長〉の身嗜みの無礼を咎めて
無礼討ちにして、直ちに尾張を奪取せんと画策していたのだった…しかし!いざ〈聖徳寺〉の会見場に現れた娘娘信長は、正装で折り目正しく
舅道三をたしなめ
〈斎藤道三〉の方が〈織田信長〉の奥底に秘めた器量と、武将としての行く末、可能性に感服してしまった〈斎藤道三〉は
「いづれ我が子や孫達は、信長の前に馬の轡(くつわ)を繋ぐであろう!」と我が子〈斎籐新九郎義竜〉以上に、娘婿信長を高く買って
駿河
の〈今川義元〉が、大軍で押し寄せて来たときは、援軍を送ると約定したのであった

ここに〈織田信長〉は〈蝮〉と恐れられた〈斎藤道三〉という、頼もしき後ろ楯を得る事になり、当面の強大な敵、駿河
の〈今川義元〉に対抗する事が出来る様になったのだったが…更に1570年元亀元年に天下統一を推し進める〈織田信長〉が、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主、盟友〈徳川家康〉と共に、越前〈一乗谷城〉主〈朝倉義景〉方の〈手筒山城〉〈金ヶ崎城〉(現福井県敦賀市)を攻撃中に
妹婿の北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井長政〉の突然の離反に遭い
越前から京都に、全軍撤退していった日



美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉は、自らが擁立した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉の名のもとに
諸大名に京の都に上洛して、朝廷と室町幕府への臣下の礼を命じたが
越前〈一乗谷城〉主〈朝倉義景〉は、再三の上洛要請に従わず
密かに〈将軍義昭〉と結んで、反織田包囲網に加担していたのだった…そして〈織田信長〉は同盟国〈徳川家康〉や従ったばかりの大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾上〉ら総勢30000
の大軍を率いて越前へ進撃4月25日朝倉方の〈手筒山城〉〈金ヶ崎城〉を相次いで攻め落とし
〈朝倉義景〉を追い詰めたが…妹〈お市〉の妹婿であり
〈将軍足利義昭〉を擁して京都へ上洛戦では進んで味方した、同盟国北近江〈小谷城〉主〈浅井長政〉が、父親〈浅井久政〉の強い、織田家への不振と朝倉家との三代にわたる、朝倉=浅井同盟に重きをおいて
突如織田方を裏切り、朝倉方の味方に寝返り
朝倉方を攻撃中の織田軍を背後から、朝倉軍と挟み討たんとしていた…この時、夫〈浅井長政〉の裏切りを知った〈お市の方〉は
兄である信長に秘かに知らせるべく〈お市〉は、信長への「陣中見舞い」と称して、小豆入りの袋の両端を紐で縛って、使者の者に持参させ、暗に伝えたとされ…それを〈織田信長〉が察して
朝倉軍と背後から迫る
浅井軍に挟み討たれると判断し
即座に全軍を京都へ撤退させると即断した

そして〈織田信長〉は家臣〈木下藤吉郎秀吉=後の豊臣秀吉〉に「殿軍しんがり」を命じて

直ちに10騎ばかりの手勢を率いて越前〈金ヶ崎城〉の戦線を離脱し
浅井領の〈
琵琶湖
〉東岸を避けて西岸から〈朽木谷くつきだに〉から京都へと命からがら
逃走
していったのだった…一方〈金ヶ崎城〉の陣で押し寄せて来る

朝倉軍を迎え討ちながら、軍勢を撤退していく難しい役目である「殿軍しんがり」を引き受けた〈木下藤吉郎秀吉=後の豊臣秀吉〉は、朝倉勢を苦戦しながら迎撃しつつ撤退していったが…撤退を留まっていた〈明智光秀〉と〈徳川家康〉の援軍を得て「殿軍」を努めあげたのであった…京都に無事撤退した〈織田信長〉の裏切った義弟〈浅井長政〉への怒り


は凄まじく後に熾烈な激戦を展開していくのであった…よって件の如し

恐々謹言卯月三十日
太閤

