俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今日は公休日出勤のゴルフ接待
で下総東金方面の外房近くまで出陣イヤーン遠い
早朝から出陣なるに残業だったから
今宵も体育館GYM鍛錬は間に合わず
致し方ナッシブルだから…今宵は昨日から公開中の「宇宙戦艦ヤマト2愛の戦士たち」を観に行くぜ
行くぜ
行くぜィ
最初から最後までクライマックスだぜィ
今日5月26日は1467年応仁元年に〈室町幕府第八代将軍=足利義政〉は正室将軍御代〈日野富子〉との間、長く嫡男に恵まれず
僧侶となっていた弟〈義尋ぎじん=後に足利義視〉を還俗させて
九代将軍職を譲るとし
幕府〈管領=細川勝元〉を〈足利義視あしかがよしみ〉の後見役と定めたのだった
すると正室〈御代=日野富子〉に嫡男が誕生
(後の足利義尚)した為
富子は次期将軍職を嫡男にと夫〈将軍義政〉に願い出たが
優柔不断な〈将軍義政〉は煮えきらず
〈日野富子〉は、幕府〈管領=細川勝元〉と同じく、幕府評定衆の実力者〈四職=山中持豊入道宗全〉に我が子〈後の足利義尚〉の後見役を依頼したのだった…
〈将軍義政〉は指導力を欠き
当時、河内守護の座をめぐって畠山家家督相続争いとなっていた〈畠山政長〉と従兄弟同士である〈畠山義就〉の対立が極限状態に陥り
これに将軍継承問題が重なり、京都〈上御霊神社〉(現京都市上京区)で〈畠山政長〉軍と〈畠山義就〉軍が激突
し永き〈応仁の乱
〉が勃発した…
〈将軍義政〉が「いづれにも関与するべからず
」との命令を無視して〈畠山義就〉軍に〈山名宗全入道〉〈斯波義廉〉〈一色義直〉らが加勢


し〈応仁の乱
=上御霊社の合戦
〉が開始され
多勢に無勢で〈管領=畠山政長〉軍は〈上御霊神社〉の森から敗走し

山名・畠山・斯波・一色連合軍の勝利に見えた…
しかし!
一方、〈将軍義政〉の命令を遵守していた〈細川勝元〉は
幕府軍としてついに謀叛軍討伐の為、挙兵に及び〈武田信賢〉〈京極持清〉〈赤松政則〉〈管領=畠山政長〉らが京都洛中堀川を挟んで対峙し、細川方は領地の摂津・丹波・讃岐・土佐から軍勢を呼び寄せた為、山名方を上回る総勢16万の大軍となり
幕府軍は優勢になった














これに呼応して〈山名宗全入道〉も領地の但馬・備後・安芸他から軍勢を召し寄せ総勢9万となり







京都洛中
堀川
の東側に布陣する幕府軍の御旗を掲げる〈管領=細川勝元〉方を東軍
堀川
の西側に陣を構えた〈山名宗全入道〉方を西軍と呼ぶ
この西軍の〈山名宗全入道〉の陣営一帯を「西陣」と呼び、後に織物で有名な「西陣織」として知られている…
そして〈将軍義政〉は東軍細川方に、将軍御代〈日野富子〉は西軍山名方に肩入れした
その後東西両軍は京都洛中洛外各所で激突
し、平安時代からの由緒有る寺社仏閣を焼き払い
京の都は一面焼け野原となっていった
また東西両軍は朝廷の〈上皇〉や〈天皇〉を味方とすべく争奪し合い、兵力差で劣っていた西軍山名方に8月には中国〈明朝〉との「勘合貿易」をめぐり〈管領=細川勝元〉と対立していた周防・長門・豊前・筑前他を領する守護大名〈大内政弘〉が大軍


を率いて京都に上洛して来た為、東西両軍は拮抗し戦闘
はいつ果てるともしれず果てしなく激化して〈応仁の乱
〉は長期化したのだった…
更に1582年天正10年に天下統一を目前にする〈織田信長〉は重臣筆頭の〈柴田勝家〉〈前田利家〉〈佐々成政〉〈不破光治〉〈佐久間盛政〉〈金森長近〉らに北陸道の攻略を厳命し
越後で〈毘沙門天=上杉謙信〉亡き後の家督相続争い〈御館の乱
〉を征した〈上杉景勝〉〈直江兼続〉方が越後国内で混乱疲弊している間に加賀・能登・越中と制圧下にした〈柴田勝家〉率いる織田軍が上杉方の越中〈松倉城〉を攻略した日だ。そして上杉方は次第に追い詰められていくのだった…
よって件の如し
恐々謹言皐月二十六日
太閤
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今日は公休日出勤のゴルフ接待
で下総東金方面の外房近くまで出陣イヤーン遠い
早朝から出陣なるに残業だったから
今宵も体育館GYM鍛錬は間に合わず
致し方ナッシブルだから…今宵は昨日から公開中の「宇宙戦艦ヤマト2愛の戦士たち」を観に行くぜ
行くぜ
行くぜィ
最初から最後までクライマックスだぜィ

今日5月26日は1467年応仁元年に〈室町幕府第八代将軍=足利義政〉は正室将軍御代〈日野富子〉との間、長く嫡男に恵まれず
僧侶となっていた弟〈義尋ぎじん=後に足利義視〉を還俗させて
九代将軍職を譲るとし
幕府〈管領=細川勝元〉を〈足利義視あしかがよしみ〉の後見役と定めたのだった
すると正室〈御代=日野富子〉に嫡男が誕生
(後の足利義尚)した為
富子は次期将軍職を嫡男にと夫〈将軍義政〉に願い出たが
優柔不断な〈将軍義政〉は煮えきらず
〈日野富子〉は、幕府〈管領=細川勝元〉と同じく、幕府評定衆の実力者〈四職=山中持豊入道宗全〉に我が子〈後の足利義尚〉の後見役を依頼したのだった…〈将軍義政〉は指導力を欠き
当時、河内守護の座をめぐって畠山家家督相続争いとなっていた〈畠山政長〉と従兄弟同士である〈畠山義就〉の対立が極限状態に陥り
これに将軍継承問題が重なり、京都〈上御霊神社〉(現京都市上京区)で〈畠山政長〉軍と〈畠山義就〉軍が激突
し永き〈応仁の乱
〉が勃発した…〈将軍義政〉が「いづれにも関与するべからず

」との命令を無視して〈畠山義就〉軍に〈山名宗全入道〉〈斯波義廉〉〈一色義直〉らが加勢


し〈応仁の乱
=上御霊社の合戦
〉が開始され
多勢に無勢で〈管領=畠山政長〉軍は〈上御霊神社〉の森から敗走し

山名・畠山・斯波・一色連合軍の勝利に見えた…しかし!
一方、〈将軍義政〉の命令を遵守していた〈細川勝元〉は
幕府軍としてついに謀叛軍討伐の為、挙兵に及び〈武田信賢〉〈京極持清〉〈赤松政則〉〈管領=畠山政長〉らが京都洛中堀川を挟んで対峙し、細川方は領地の摂津・丹波・讃岐・土佐から軍勢を呼び寄せた為、山名方を上回る総勢16万の大軍となり
幕府軍は優勢になった














これに呼応して〈山名宗全入道〉も領地の但馬・備後・安芸他から軍勢を召し寄せ総勢9万となり








京都洛中
堀川
の東側に布陣する幕府軍の御旗を掲げる〈管領=細川勝元〉方を東軍
堀川
の西側に陣を構えた〈山名宗全入道〉方を西軍と呼ぶこの西軍の〈山名宗全入道〉の陣営一帯を「西陣」と呼び、後に織物で有名な「西陣織」として知られている…
そして〈将軍義政〉は東軍細川方に、将軍御代〈日野富子〉は西軍山名方に肩入れした
その後東西両軍は京都洛中洛外各所で激突
し、平安時代からの由緒有る寺社仏閣を焼き払い
京の都は一面焼け野原となっていった
また東西両軍は朝廷の〈上皇〉や〈天皇〉を味方とすべく争奪し合い、兵力差で劣っていた西軍山名方に8月には中国〈明朝〉との「勘合貿易」をめぐり〈管領=細川勝元〉と対立していた周防・長門・豊前・筑前他を領する守護大名〈大内政弘〉が大軍



を率いて京都に上洛して来た為、東西両軍は拮抗し戦闘
はいつ果てるともしれず果てしなく激化して〈応仁の乱
〉は長期化したのだった…更に1582年天正10年に天下統一を目前にする〈織田信長〉は重臣筆頭の〈柴田勝家〉〈前田利家〉〈佐々成政〉〈不破光治〉〈佐久間盛政〉〈金森長近〉らに北陸道の攻略を厳命し

越後で〈毘沙門天=上杉謙信〉亡き後の家督相続争い〈御館の乱
〉を征した〈上杉景勝〉〈直江兼続〉方が越後国内で混乱疲弊している間に加賀・能登・越中と制圧下にした〈柴田勝家〉率いる織田軍が上杉方の越中〈松倉城〉を攻略した日だ。そして上杉方は次第に追い詰められていくのだった…よって件の如し

恐々謹言皐月二十六日
太閤