俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


昨日から我が母上を連れて駿河
に出陣中
で先週母の日が出来なんだった為、昨夜は駿河
で宿泊仕り申し
今朝も駿河
観光に出立
まづは清水区の昨日拝観出来なんだった〈足利尊氏〉や〈今川氏真〉〈北条氏康〉〈北条氏政〉〈豊臣秀吉〉〈徳川家康〉もが滞在した古刹〈清見寺〉を拝観したが寺宝の〈今川義元〉の軍師〈太原崇浮雪斎たいけんそうふせっさい〉の肖像画は宝物館に秘蔵されとり見られへんジャった
その後、任侠〈清水次郎長〉生家→「東海の親不知」として名高い東海一の難所〈薩捶峠さったとうげ〉からの駿河
湾
の眺めは絶景かな
絶景かな
母上は恐がっておったが
そして富士市
へ移動したが…霊峰
富士山は生憎
が掛かってて見られへんジャった
_<)ンで吉原の源平古戦場
〈富士川の合戦
〉→〈田子の浦〉付近の〈吉原湊
〉→と〈今川義元〉〈武田信玄〉〈北条氏康〉による「善得寺の会盟=駿甲相三国同盟」締結の地〈善得寺跡〉を訪れ
いざ関東へ帰還仕り申したぜィ
明日からまた仕事ダァ
今日5月20日は1496年明応5年に〈室町幕府第八代将軍=足利義政〉の正室〈日野富子〉が死去した命日で〈日野富子〉の夫、八代公方〈将軍義政〉は政務を省みる事無く
茶道や箱庭・歌詠み等文芸の道に逃げ込んでいた…
その頃、九代将軍の座と諸大名の後継者・領地争いをめぐって勃発した〈応仁の乱
〉の混乱の最中に京都東山山荘の造営に現実逃避していた〈将軍義政〉の〈正室・将軍御代所=日野富子〉は政そっちのけで趣味に没頭している夫〈将軍義政〉に成り代わって幕政の実権を掌握し〈応仁の乱
〉で長く京の都洛中に在陣で軍資金に事欠いていた諸大名
に金を貸し付け利息を取ったり、米蔵を建て米商いを行い次第に権力と経済をも掌握していった。
やがて〈応仁の乱
〉も西軍総大将=〈山名宗全〉が死去し
続いて幕府軍=東軍総大将〈細川勝元〉も相次いで死去し
東西両軍の守護大名達も国元で守護代が下剋上に及ぶ等、京都に在陣していられなくなっていき…帰国に金を貸し付ける等富子の利殖に励む事に誹謗中傷が起こっていた
そして〈応仁の乱
〉の末に九代将軍に擁立した我が子〈足利義尚〉が若くして南近江〈六角高頼〉討伐の為、出陣中の陣中で急死
し夫〈足利義政〉も相次いで死去しても尚、幕政と将軍擁立に関与し続けて、この日死去した命日。享年57歳。
更に1614年慶長19年豊臣家五大老にして加賀〈金沢城〉(現石川県金沢市)主〈加賀大納言前田利家〉の嫡男にして加賀藩祖〈前田利長〉が死去した命日で享年53歳
この〈前田利長〉の死と引き換えに江戸に人質となっていた先君〈前田利家〉の正室〈おまつ=芳春院〉が加賀へ徳川幕府から帰国を許されたのだった
よって件の如し
恐々謹言皐月二十日
太閤










参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



昨日から我が母上を連れて駿河
に出陣中
で先週母の日が出来なんだった為、昨夜は駿河
で宿泊仕り申し
今朝も駿河
観光に出立
まづは清水区の昨日拝観出来なんだった〈足利尊氏〉や〈今川氏真〉〈北条氏康〉〈北条氏政〉〈豊臣秀吉〉〈徳川家康〉もが滞在した古刹〈清見寺〉を拝観したが寺宝の〈今川義元〉の軍師〈太原崇浮雪斎たいけんそうふせっさい〉の肖像画は宝物館に秘蔵されとり見られへんジャった

その後、任侠〈清水次郎長〉生家→「東海の親不知」として名高い東海一の難所〈薩捶峠さったとうげ〉からの駿河
湾
の眺めは絶景かな
絶景かな
母上は恐がっておったが
そして富士市
へ移動したが…霊峰
富士山は生憎
が掛かってて見られへんジャった
_<)ンで吉原の源平古戦場
〈富士川の合戦
〉→〈田子の浦〉付近の〈吉原湊
〉→と〈今川義元〉〈武田信玄〉〈北条氏康〉による「善得寺の会盟=駿甲相三国同盟」締結の地〈善得寺跡〉を訪れ
いざ関東へ帰還仕り申したぜィ
明日からまた仕事ダァ

今日5月20日は1496年明応5年に〈室町幕府第八代将軍=足利義政〉の正室〈日野富子〉が死去した命日で〈日野富子〉の夫、八代公方〈将軍義政〉は政務を省みる事無く
茶道や箱庭・歌詠み等文芸の道に逃げ込んでいた…その頃、九代将軍の座と諸大名の後継者・領地争いをめぐって勃発した〈応仁の乱
〉の混乱の最中に京都東山山荘の造営に現実逃避していた〈将軍義政〉の〈正室・将軍御代所=日野富子〉は政そっちのけで趣味に没頭している夫〈将軍義政〉に成り代わって幕政の実権を掌握し〈応仁の乱
〉で長く京の都洛中に在陣で軍資金に事欠いていた諸大名
に金を貸し付け利息を取ったり、米蔵を建て米商いを行い次第に権力と経済をも掌握していった。やがて〈応仁の乱
〉も西軍総大将=〈山名宗全〉が死去し
続いて幕府軍=東軍総大将〈細川勝元〉も相次いで死去し
東西両軍の守護大名達も国元で守護代が下剋上に及ぶ等、京都に在陣していられなくなっていき…帰国に金を貸し付ける等富子の利殖に励む事に誹謗中傷が起こっていた
そして〈応仁の乱
〉の末に九代将軍に擁立した我が子〈足利義尚〉が若くして南近江〈六角高頼〉討伐の為、出陣中の陣中で急死
し夫〈足利義政〉も相次いで死去しても尚、幕政と将軍擁立に関与し続けて、この日死去した命日。享年57歳。更に1614年慶長19年豊臣家五大老にして加賀〈金沢城〉(現石川県金沢市)主〈加賀大納言前田利家〉の嫡男にして加賀藩祖〈前田利長〉が死去した命日で享年53歳

この〈前田利長〉の死と引き換えに江戸に人質となっていた先君〈前田利家〉の正室〈おまつ=芳春院〉が加賀へ徳川幕府から帰国を許されたのだった

よって件の如し

恐々謹言皐月二十日
太閤









