俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


昨日からGW四連休突入
今日は普段から世話をかけてる母上を連れ






渋滞の関上信越道へ向かうは上野へ出陣
途中数ヶ所渋滞


はしていたものの
概ね順調に上野高崎城下に着陣
目下来週まで開催中の関東では初という「織田信長と上野」展を観覧仕り申した
〈織田信長〉が1582年天正10年3月甲斐の〈武田勝頼〉を攻め滅ぼした後6月〈本能寺の変
〉で信長が横死するまでの僅か3ヶ月間の〈滝川一益〉による関東・奥羽への「東国惣武事」支配について中心に展示されておった
その後〈本能寺の変
〉後〈滝川ー益〉と〈北条氏直〉が激突した埼玉県と群馬県境を流れる
〈神流川の合戦
〉の〈神流川古戦場
〉(現群馬県高崎市)や北条方の〈金窪城跡〉他にも〈関東菅領職=山内上杉〉氏代々の本拠〈平井城跡〉(現群馬県藤岡市)を見て
〈高崎白衣観音〉をいただく〈慈眼寺じがんじ〉を参拝仕り申したぜィ
帰途はUターンラッシュに巻き込まれたが…何とか比較的順調に帰還
出来たから日帰りの大浴場
に浸かり旅の疲れをとり申し候
今日5月4日は1550年天文19年に〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉が近江の〈穴太あのう〉で死去した命日
享年40歳
更に1572年元亀3年に薩摩の〈島津義久〉が日の向〈伊東義祐〉を〈木崎原の合戦
〉で討ち敗った日で
日向の〈伊東義祐〉は日向南部へ侵攻を進め弟〈伊東祐信〉を大将として3000
を派兵し〈加久藤城〉(現宮崎県えびの市)を攻め
しかし〈伊東祐信〉は〈加久藤城〉攻め
で苦戦を強いられた為
〈木崎原きざきばる〉に一旦退き
陣を敷いていた…
そこへ薩摩の〈島津義弘〉(島津義久の弟)が3000
を率いて〈伊東祐信〉軍
を奇襲した〈木崎原の合戦
〉で伊東勢は大敗を期して〈伊東義祐〉は自らの力では〈島津義久〉に対抗しきれず隣国豊後のキリシタン大名〈大友宗麟おおともそうりん〉を頼り
やがては島津氏と大友氏が激突雌雄を決するのであった…
更に1586年天正14年に天下統一を推し進める〈織田信長〉に敵対する摂津〈大坂〉の〈石山本願寺〉(現大阪城)を包囲中だった織田方〈伊丹城〉主(現兵庫県伊丹市)で信長から「摂津守護」まで与えられていた〈荒木村重〉が突如謀叛を起こして〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉安芸の〈毛利輝元〉らに内通した為、激怒した
〈織田信長〉が〈荒木村重〉が籠城する〈有岡城〉(現兵庫県伊丹市)を包囲したが
〈羽柴秀吉〉の軍師〈黒田官兵衛〉が説得に来たところを逆に捕らえて石牢に幽閉し単独〈有岡城〉を脱出し
〈伊丹城〉へ逃亡した
その後織田軍の総攻撃で〈有岡城〉は落城し
荒木一族は全員殺害されていた…その後〈荒木村重〉は〈毛利輝元〉からの援軍を得られないまま没落
し諸国を流浪後〈関白=豊臣秀吉〉に仕え茶匠〈千利休〉の門弟〈道糞どうふん〉となっていたが世捨て人のまま死去した命日で享年52歳
更に1597年慶長2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉が甥の〈豊臣秀次〉を養子として京都〈聚楽第じゅらくてい〉(現京都市中京区)と「関白」職を譲り
隠居城の築城を諸大名にさせていたが…新造成った〈伏見指月城〉(現京都市伏見区)に移った日だ。
よって件の如し
恐々謹言皐月四日
太閤










参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



昨日からGW四連休突入
今日は普段から世話をかけてる母上を連れ






渋滞の関上信越道へ向かうは上野へ出陣
途中数ヶ所渋滞


はしていたものの
概ね順調に上野高崎城下に着陣
目下来週まで開催中の関東では初という「織田信長と上野」展を観覧仕り申した
〈織田信長〉が1582年天正10年3月甲斐の〈武田勝頼〉を攻め滅ぼした後6月〈本能寺の変
〉で信長が横死するまでの僅か3ヶ月間の〈滝川一益〉による関東・奥羽への「東国惣武事」支配について中心に展示されておった
その後〈本能寺の変
〉後〈滝川ー益〉と〈北条氏直〉が激突した埼玉県と群馬県境を流れる
〈神流川の合戦
〉の〈神流川古戦場
〉(現群馬県高崎市)や北条方の〈金窪城跡〉他にも〈関東菅領職=山内上杉〉氏代々の本拠〈平井城跡〉(現群馬県藤岡市)を見て
〈高崎白衣観音〉をいただく〈慈眼寺じがんじ〉を参拝仕り申したぜィ
帰途はUターンラッシュに巻き込まれたが…何とか比較的順調に帰還
出来たから日帰りの大浴場
に浸かり旅の疲れをとり申し候
今日5月4日は1550年天文19年に〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉が近江の〈穴太あのう〉で死去した命日
享年40歳
更に1572年元亀3年に薩摩の〈島津義久〉が日の向〈伊東義祐〉を〈木崎原の合戦
〉で討ち敗った日で
日向の〈伊東義祐〉は日向南部へ侵攻を進め弟〈伊東祐信〉を大将として3000
を派兵し〈加久藤城〉(現宮崎県えびの市)を攻め
しかし〈伊東祐信〉は〈加久藤城〉攻め
で苦戦を強いられた為
〈木崎原きざきばる〉に一旦退き
陣を敷いていた…そこへ薩摩の〈島津義弘〉(島津義久の弟)が3000
を率いて〈伊東祐信〉軍
を奇襲した〈木崎原の合戦
〉で伊東勢は大敗を期して〈伊東義祐〉は自らの力では〈島津義久〉に対抗しきれず隣国豊後のキリシタン大名〈大友宗麟おおともそうりん〉を頼り
やがては島津氏と大友氏が激突雌雄を決するのであった…更に1586年天正14年に天下統一を推し進める〈織田信長〉に敵対する摂津〈大坂〉の〈石山本願寺〉(現大阪城)を包囲中だった織田方〈伊丹城〉主(現兵庫県伊丹市)で信長から「摂津守護」まで与えられていた〈荒木村重〉が突如謀叛を起こして〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉安芸の〈毛利輝元〉らに内通した為、激怒した
〈織田信長〉が〈荒木村重〉が籠城する〈有岡城〉(現兵庫県伊丹市)を包囲したが〈羽柴秀吉〉の軍師〈黒田官兵衛〉が説得に来たところを逆に捕らえて石牢に幽閉し単独〈有岡城〉を脱出し
〈伊丹城〉へ逃亡した
その後織田軍の総攻撃で〈有岡城〉は落城し
荒木一族は全員殺害されていた…その後〈荒木村重〉は〈毛利輝元〉からの援軍を得られないまま没落
し諸国を流浪後〈関白=豊臣秀吉〉に仕え茶匠〈千利休〉の門弟〈道糞どうふん〉となっていたが世捨て人のまま死去した命日で享年52歳
更に1597年慶長2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉が甥の〈豊臣秀次〉を養子として京都〈聚楽第じゅらくてい〉(現京都市中京区)と「関白」職を譲り
隠居城の築城を諸大名にさせていたが…新造成った〈伏見指月城〉(現京都市伏見区)に移った日だ。よって件の如し

恐々謹言皐月四日
太閤









