ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す
(*^∀^*)


イヤッホーイ!!


どぉもどぉもアップアップアップ


今日からGW四連休突入ニコニコさりながら初日から雨天初夏の嵐と車車車雷車車車雷渋滞で出陣は取り止めショック!


GW明けからは減量ダウンに突入予定だが今朝のTVで炭水化物摂取制限の長期継続即ち糖質制限は肉体の老化ダウンを早めるとの東大農学部の研究報告此有り候ショック!


えービックリマークエービックリマークAー!!


マジすかービックリマーク


気をつけねば注意


故に今宵も体育館GYM鍛錬に出陣車此度は腕肩鍛錬でまづは上腕二頭筋鍛錬ケーブルアームカール31㌔負荷5set計60回+上腕三頭筋鍛錬プレスダウン31㌔負荷5set計60回+再び上腕二頭筋鍛錬ダンベルハンマーカール18㌔負荷5set計60回+肩三角筋鍛錬ダンベルショルダープレス20㌔負荷5set計50回+肩三角筋後部鍛錬ダンベルリアレイズ18㌔負荷5set計100回+再び肩三角筋鍛錬ケーブルサイドレイズ9㌔負荷左右各6setづつ各計60回づつ+ラスト前腕筋鍛錬リストカール20㌔負荷2set計64回+リバースカール20㌔負荷2set計64回鍛錬仕り申したぜィビックリマーク


今日5月3日は1587年天正15年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による私戦を禁ずる「惣武事令そうぶじれい」に違反して九州全土征服を目指す薩摩の〈島津義久〉は〈関白秀吉〉の裁定を不服として大友氏領の筑前・豊前・豊後への侵攻を続け馬馬馬窮したガーン豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主でキリシタン大名〈大友宗麟〉は〈大坂城〉に登城して天下人〈関白=豊臣秀吉〉に謁見を許されニコニコ薩摩の〈島津義久〉討伐を要請した。これに対して天下人〈関白秀吉〉は〈島津征伐美容院〉を決定しプンプン自らも大軍を率いて九州へ出陣を決定した。


一方、薩摩の〈島津義久〉〈島津義弘〉兄弟は〈高橋紹運たかはしじょううん〉の筑前〈岩屋城〉(現福岡県太宰府市)を攻略し美容院筑前平定の直前に〈関白秀吉〉の命により出陣して来た中国安芸の〈毛利輝元〉〈小早川隆景〉ら大軍が来援を前に北九州から撤退していったが…


〈島津義久〉〈島津義弘〉兄弟は20000馬馬の軍勢で日向〈高城〉(現宮崎県木城町)に入城して南下して来る〈豊臣秀長〉(関白秀吉の弟)の大軍に備えて4月17日、日向〈根白坂〉で、これを迎撃したが大敗を期して美容院後方からは〈関白秀吉〉本隊が肥後方面から薩摩に進軍南下して来ていた馬馬馬馬馬馬馬馬


その為ガーン〈島津義久〉は5月3日家臣〈河野通貞〉を〈関白秀吉〉本陣に派遣して全面降伏を申し入れた日で〈関白秀吉〉は島津降伏に上機嫌で満足した進軍を停止したのだった。この後〈島津義久〉は剃髪して〈関白=豊臣秀吉〉に拝謁し薩摩・大隅を安堵されるのであった…


更に1592年文禄元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄の役美容院〉で先鋒を命じられた〈小西行長〉=〈宗義智〉隊馬と〈加藤清正〉隊馬が朝鮮の都〈漢城=ソウル〉に入城した日だ。〈小西行長〉は敬虔なキリシタン大名で〈加藤清正〉は日蓮宗を熱心に信仰しニコニコ互いに肥後の大名で朝鮮半島で競い合いながら北上して行ったのだった馬馬


更に1600年慶長5年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉亡き後、専横著しい豊臣家「五大老」筆頭〈内大臣=徳川家康〉に対して「五奉行」から失脚させられた〈石田三成〉が「五大老」の〈会津中納言=上杉景勝〉の家老〈直江山城守兼続〉と図り、東西から〈内府家康〉を挟み討つ策を講じた…


一方〈内大臣=徳川家康〉は〈太閤秀吉〉亡き後「五大老」「五奉行」の指導体制を廃止させる機会を狙い最初に目をつけたのが加賀〈金沢城〉(現石川県金沢市)主〈前田利長〉(大納言=前田利家の嫡男)であったが亡き〈加賀大納言=前田利家〉の正室で〈前田利長〉の母親〈まつ=芳春院〉が徳川の本拠〈江戸〉に人質に行くという事で加賀前田攻めは白紙になっていた…


その為、五大老の〈会津中納言=上杉景勝〉が亡き〈太閤秀吉〉の命令で越後から会津120万石に移封になり…〈太閤秀吉〉死去後、会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)に帰国して内政に執り懸かり城の修築や道路・橋の整備・家臣の新規召し抱え等を急いでいた…


これに目をつけた〈内府家康〉は〈上杉景勝〉に対して、再び京都に上洛して不穏な会津領内の備えについて弁明する様ニコニコパー求めたが〈上杉景勝〉は内政干渉を理由に上洛要請に応じなかったシラー


その為〈内府家康〉は家臣〈伊奈昭綱〉らを会津〈若松城〉に詰問使を派遣すると同時に「京都五山」〈相国寺〉の〈西笑承兌さいしょうしょうたい〉に〈上杉景勝〉の「非違八カ条」を上杉家家老〈直江山城守兼続〉に宛てて書き送らせた…その返書として〈直江兼続〉が全文十六カ条からなる長文「直江状手紙」を書き連ねて〈内府家康〉の懸念を根拠の無い言い掛かりだしょぼんパーとして正面から堂々と弁明と〈内府家康〉の不正を逆に批判したプンプンパー


この「直江状手紙」を読んだ〈内府家康〉は激怒むかっプンプンむかっして〈会津上杉征伐美容院〉を決定した日だ。この会津征伐が天下分け目の〈関ヶ原の合戦美容院〉の引き金となっていくのであった…


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言皐月三日
太閤