日曜日に日本に帰国した母。あっという間だったような長かったような、またまた苦労と心配をかけてしまった4週間。母を仁川空港に送り届け帰りの車の中で突然テウが「ばぁば〜!!ありがとう〜!!」と空に向かって叫んでたのが印象的やった。いつもは1〜2週間で飽きて母にいじわるしたりちょっと乱暴になるテウが、今回は最後まで母になつきっぱなしで毎日母と一緒に寝ていたので泣きはしなかったけど寂しい気持ちも大きかったのかもしれない。
前半はショッピングに出かけたり子供の日のストリートフェスティバルに出かけたりと元気に過ごせたけど、私の胃痛が始まってからは絶食のため動く力も出ず、家事もほぼ母にまかせっきりになってしまった。私のためのお粥やテウの好きなもの、そして旦那と母が食べるものとそれぞれ別々の食事を慣れない台所で用意するのも年をとった母には大変やったと思う。
母なりには一生懸命やってくれてたのに、以前よりも家事のスピードが落ちて動けなくなってる母にイライラしてしまい、「旦那には出張疲れがとれる食事を準備してあげてほしかった」とか「私が言う前に洗濯物取り込んだり掃除してよ」と自分勝手な事を思いながら母に冷たく当たってしまったりもした。
自分が家族のためにしてあげたいことを代わりに母がしてくれたら…と欲が出る。でも母を見てるとそこまで望むのは無理や、贅沢やと思う。
体調が悪くて辛い時に母と旦那の通訳をずっとしないといけないのも辛かった。日本語がいつまでたっても伸びない旦那にイライラしてたのもあるし、妊娠出産・産後のしんどい時にテウの世話しながら2人の通訳するのが大変やった記憶が蘇ったのかもしれない。言葉が通じなくても直接コミュニケーションをとろうという姿勢があれば成り立つ部分もあるはずやのに、いつだって2人が私を頼りにしてくることに嫌気がさしてたのもあると思う。
でもちゃんと分かってる。両親には結婚を反対されたのに韓国人と結婚したのは私。韓国に来ると決めたのも私。親と旦那の言葉が通じへんのは当たり前で、そこは両親が苦労せんように私がカバーするのが当たり前ということ。切迫早産で入院中も、破水した時も、陣痛で苦しんでる最中も、テウが生まれた瞬間も、育児でどんなに大変な時も、体調が悪くても、眠くても、イライラしててもどんな時でも通訳せなあかん。「しょーがない」の一言に尽きる。
でもやっぱりその「当たり前」とか「しょーがない」もしんどい時がある。体調が悪かったせいで余裕もなくて、精神的な部分でそのバランスをうまくとれなかった。ある日食卓で自分の気持ちを正直に話したら涙が出た。そしたら母も涙ぐみながら「出来ない事は仕方ない。今は早く元気になるのが一番」と私を責めるでもなく叱るでもなく、ただ励ましてくれた。
日曜日、いつもみたいに空港でお別れの時に母と手紙を渡し合った。その中に私は自分の身勝手さを「ごめんね」と書き、その何倍もたくさんの「ありがとう」を書いた。そして母の手紙には「あなたの思うようにしてあげれなくてごめんね」と書いてあった。
あの日、私が食卓で泣いてしまった時に母は私をただ励ますだけにとどめてくれた。もしあの時母に「あなたの思うようにしてあげられなくてごめん」と面と向かって謝られていたら、私はきっとすごく自分を責めていたやろうし母が帰るまでずっとわだかまりが残っていたと思う。「ごめん」という言葉を胸に留めておくのは簡単なことじゃなかったやろうに、母がそうしてくれた事に今でもとても感謝している。
今年で68歳。先日ハニウォンで看護師さんに年を聞かれ「すごく若々しいですね」と言われ通訳してあげると、喜ぶかと思いきや「体はもうボロボロです」と小さい声で答えた母。それが何ともショックで私は看護師さんに通訳できなかった。若い頃から育児中も更年期でしんどい時もずーっと働いてきて体は随分ガタがきてると思う。
一緒に住んでた時は日々の変化を見ることができたけど、私が結婚してからは1年に数回合う程度になり、私の頭の中では前回会った時の母のままやから、数ヶ月ぶりに会うと急に年とったみたいでショックを受けることも多い。でもこれも私が選んだ道か。。
40歳も目前、自分も母親になったのに何でこんなにも成長せーへんのやろう。母にだけはいつまでも甘えっぱなしで醜態さらして迷惑と心配ばかりかけて。。
いつまでも元気でいてほしい。そしていつまでも甘やかして欲しいと思うのも私の勝手なわがままやけど、そう願わずにはいられない。まだまだ一緒に行きたいところもあるし、伝えたいこともたくさんある。テウの成長も見守ってほしい。8月の母の誕生日は1年8ヶ月ぶりに日本に帰れる予定なので、楽しく、大切に過ごしたい
